飛鳥・奈良時代
飛鳥・奈良 592年〜794年

崇仏論争

崇仏論争は、蘇我の崇仏と物部の排仏の対立。

シナリオ

物部守屋との決戦が迫っている! 蘇我馬子の兵士として、この戦いの大義名分を問われた。

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崇仏論争蘇我馬子三経義疏

崇仏論争とは — くわしい解説

六世紀中頃に百済から公式に仏像と経典が伝えられた後、仏教受容の是非をめぐって朝廷は二つに割れました。渡来系の技術と思想を積極的に取り込もうとする蘇我氏と、神祇祭祀の伝統を重んじ疫病流行を仏罰として排仏を唱える物部氏の対立です。五八七年、用明天皇の死後に皇位継承問題が絡んで両者は武力衝突に至り、蘇我馬子は厩戸皇子をはじめとする皇族を味方に引き入れて物部守屋を河内の衣摺で討ち取りました。勝者の蘇我氏は自らが天皇位に就くことはせず、崇峻天皇の暗殺を経て姪の推古天皇を擁立し、背後から政治を動かす方式を選びます。この決着は仏教の国家的受容を決定づけ、のちの飛鳥寺建立や蘇我・皇室連携による冠位十二階・十七条憲法といった国家形成事業を可能にした因果の起点となったのです。

飛鳥・奈良時代とは

推古天皇の即位から平安遷都までの約200年間。聖徳太子の十七条憲法と冠位十二階で中央集権の基礎が築かれ、大化の改新(645年)で本格的な律令国家への転換が始まった。701年の大宝律令で法制度が整備され、710年には平城京が建設された。この時代の最大の構造転換は土地制度にある。公地公民の原則に基づく班田収授法は、723年の三世一身法、743年の墾田永年私財法を経て崩壊へ向かい、土地の私有化が荘園制度の拡大を生んだ。この変化が後の武士台頭の遠因となる。仏教は国家鎮護の手段として受容され、東大寺の大仏建立や鑑真の来日など、大陸文化の摂取が活発に行われた時代でもある。

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