安土桃山 1573年〜1603年
関ヶ原の戦い
関ヶ原(1600年)は東軍(家康)の勝利——三成が西軍の中心で、この戦いが江戸幕府への道を開いた。

シナリオ
1600年、天下分け目——。関ヶ原の戦いに参加する武将として、情勢をどう見る?
あなたの判断は?
重要事実
- 1600年の関ヶ原の戦いでは、石田三成を中心とする西軍と徳川家康を中心とする東軍が激突した。
- 関ヶ原の戦いで東軍(徳川方)が勝利し、家康はその後の覇権確立への決定的な基盤を得た。
- 関ヶ原の戦いの結果、多くの西軍大名が改易・減封され、東軍の大名は加増されて政治秩序が再編された。
覚えておくこと
関ヶ原(1600年)は東軍(家康)の勝利——三成が西軍の中心で、この戦いが江戸幕府への道を開いた。
関ヶ原の戦い戦国
安土桃山時代とは
織田信長と豊臣秀吉による天下統一が達成された短くも濃密な時代。信長の安土城と秀吉の桃山(伏見城)から名をとる。信長は中世的な権威と既得権益を破壊し、秀吉がその成果を制度化した。太閤検地による全国的な土地調査、刀狩りによる兵農分離、身分統制令による階級固定は、続く江戸時代260年間の安定を準備した構造改革だった。文化面では豪壮華麗な桃山文化が開花し、城郭建築・茶の湯・障壁画が発展した。
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関ヶ原の戦いとは — くわしい解説
豊臣秀吉の没後、政権の運営は五大老・五奉行による合議体制に委ねられていましたが、五大老筆頭であった徳川家康は次第に独自の判断で大名間の婚姻や加増を進め、豊臣政権の秩序を揺るがしていきました。これに危機感を抱いた五奉行の石田三成は、会津征伐に向かった家康の留守を衝いて挙兵し、毛利輝元を総大将に擁する西軍を組織します。対する家康は諸大名を糾合して東軍を率い、一六〇〇年、美濃の関ヶ原で両軍およそ十数万が激突しました。戦いは小早川秀秋らの寝返りもあり、わずか一日で東軍の勝利に終わります。戦後、家康は西軍諸大名を改易・減封する一方、東軍方を加増して全国の大名配置を大きく塗り替えました。豊臣家は摂津・河内・和泉の一大名へと転落し、家康は三年後に征夷大将軍となって江戸幕府を開きます。関ヶ原の勝敗が、以後二百六十余年にわたる徳川の世を決定づけたのです。