織田信長
おだのぶなが
戦国時代の革新者。桶狭間の戦いで今川義元を破り、以後、楽市楽座による経済改革、長篠の戦いでの鉄砲の組織的運用、比叡山焼き討ちや石山本願寺との戦いによる宗教勢力の武装解除など、中世的な権威と既得権益を次々に破壊した。天下統一を目前にして本能寺の変で横死したが、信長が築いた革新の基盤の上に秀吉の統一と家康の安定が成り立った。日本史における「中世から近世への転換」を力ずくで推進した人物である。
織田信長は何をした人?
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1 尾張を統一し、美濃を攻略した
信長は尾張の織田信秀の子で、1551年または1552年(父の没年に諸説)に家督を継ぎました。1559年に岩倉城の織田信賢を追って尾張をほぼ統一し(統一の完成を1565年とする見方もあります)、1560年の桶狭間の戦いでは駿河の今川義元を討ちました。かつてはこの戦いを豪雨に乗じた奇襲とみる説が有名でしたが、現在は『信長公記』にもとづく正面攻撃説が支持されています。1567年には美濃の稲葉山城を攻略して岐阜と改め、「天下布武」の印を使い始めました。
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2 足利義昭を奉じて上洛し、畿内に勢力を広げた
1568年9月、信長は足利義昭を奉じて京都に上り、義昭は将軍となりました。その後は1570年の姉川の戦いをはじめ、周辺の大名や本願寺などとの戦いが続きます。やがて義昭とも対立し、1573年に義昭を京都から追放しました。1576年には近江の安土山で安土城の築城を始め、1579年に完成した天主に移っています。1577年に右大臣に任じられましたが、翌1578年に辞任しました。1582年に武田氏を滅ぼしたのち、同年6月2日に家臣の明智光秀に背かれ、京都の本能寺で亡くなりました。
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3 楽市楽座と関所の撤廃で商業・流通を活発にした
信長の経済政策としてよく知られるのが楽市楽座です。1567年に美濃加納へ出した制札で市場での自由な通行や特権を認め、翌1568年の制札で初めて「楽市楽座」の文言を用いました。1577年の安土山下町中掟書(13か条)では、諸役の免除や移住者の優遇などを定めています。ただし楽市令は1549年の六角氏など信長以前にも例があり、「楽座」は座の廃止ではなく座役銭などの負担の免除を指すとする見方もあります。あわせて尾張・美濃などの領国で関所を廃止し、物資の流れを円滑にしました。
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4 撰銭令と指出検地で、銭と土地を把握しようとした
当時は質の悪い銭の受け取りを嫌う「撰銭」が広がり、銭の流通が混乱していました。信長は1569年に撰銭令を出し、それまで使用が禁じられていた銭も認めたうえで、銭ごとの価値の違いに応じた交換比率を定めています。土地については、家臣や寺社に土地の面積・収穫量・耕作者などを書き出して提出させる指出検地を行い、1580年には大和国の興福寺領など寺社の所領にも提出を強制しました。検地奉行が現地で測量する豊臣秀吉の太閤検地とは方式が異なり、基準も統一されていませんでした。
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5 宗教勢力と戦う一方、キリスト教の布教を認めた
信長は、武力や経済力を持つ寺社勢力と激しく戦いました。1571年に比叡山延暦寺を焼き討ちし、1574年に伊勢長島、1575年に越前の一向一揆を制圧しています。1570年に始まった石山本願寺との戦いは約10年に及び、1580年の和睦で本願寺は石山から退去しました。一方で、1569年に宣教師ルイス・フロイスと会い、畿内での布教を許しています。セミナリオ(神学校)や京都の南蛮寺の建設も認めました。
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6 城下町をつくり、鉄砲を大量に活用した
信長は本拠を小牧山城(1563年)、岐阜城(1567年)、安土城(1576年築城開始)へと移し、城下に商工業者を集めました。家臣団を城下に集めて住まわせたことで、長期の遠征にも耐えられる軍団をつくったと評価されています。1575年の長篠の戦いでは、馬防柵を築いた陣地から多数の鉄砲を用いて武田勝頼の軍に大勝しました。ただし鉄砲の数は『信長公記』で約1000挺、小瀬甫庵の『信長記』で3000挺と差があり、有名な「三段撃ち」も『信長公記』に具体的な記述がないため、実態には諸説あります。
織田信長の主な政策一覧
| 政策 | 時期・地域 | 内容 |
|---|---|---|
| 楽市・楽座 | 1567〜68年(美濃加納)、1577年(安土) | 市場や城下の商人に自由な営業を認め、座役銭などの負担を免除して商人を集めました。楽市令自体は六角氏など信長以前にも例があります。 |
| 関所の撤廃 | 尾張・美濃などの領国 | 通行税(関銭)を取る関所を廃止し、人や物資の流れを円滑にしました。全国規模の関所撤廃は豊臣秀吉の時代に進みました。 |
| 撰銭令 | 1569年 | 銭の選り好み(撰銭)による混乱に対し、銭ごとの価値の違いを認めて交換比率を定めました。 |
| 指出検地 | 1580年(大和)など | 家臣や寺社に土地の面積・収穫量・耕作者などを申告させ、土地を把握しようとしました。基準は統一されていませんでした。 |
| 城下町づくり・家臣の集住 | 小牧山(1563年)→岐阜(1567年)→安土(1576年〜) | 本拠を移しながら城下町を整え、家臣団を城下に集めて住まわせました。安土では掟書で城下の商人を保護しています。 |
| キリスト教の布教許可 | 1569年〜 | ルイス・フロイスと会見して畿内での布教を認め、セミナリオ(神学校)や京都の南蛮寺の建設も認めました。 |
| 宗教勢力との戦い | 1570〜1580年 | 比叡山延暦寺の焼き討ち(1571年)、伊勢長島(1574年)・越前(1575年)の一向一揆の制圧、石山本願寺との戦い(1580年に和睦)を行いました。 |
| 鉄砲の組織的な活用 | 1575年(長篠の戦い)ほか | 馬防柵と多数の鉄砲を用いて武田勝頼の軍を破りました。鉄砲の数や「三段撃ち」の実態には諸説あります。 |
織田信長の年表
年は和暦の年に対応する西暦で示しています(旧暦の年末の出来事は、西暦の日付では翌年にあたる場合があります)。年齢は数え年です。
| 年 | 年齢(数え年) | 出来事 |
|---|---|---|
| 1534年 | 1歳 | 尾張の織田信秀の子として誕生(誕生地は勝幡城説など諸説) |
| 1546年 | 13歳 | 元服 |
| 1551年/1552年 | 18歳/19歳 | 父・信秀の死去により家督を継ぐ(信秀の没年に2説) |
| 1559年 | 26歳 | 岩倉城の織田信賢を追い、尾張をほぼ統一。上洛 |
| 1560年 | 27歳 | 桶狭間の戦いで今川義元を討つ |
| 1563年 | 30歳 | 本拠を小牧山城へ移す |
| 1567年 | 34歳 | 稲葉山城を攻略し岐阜と改称。「天下布武」印の使用開始。加納に楽市の制札 |
| 1568年 | 35歳 | 9月、足利義昭を奉じて上洛。加納に「楽市楽座」の制札 |
| 1569年 | 36歳 | 撰銭令。ルイス・フロイスと会見し、布教を許可 |
| 1570年 | 37歳 | 姉川の戦い。石山本願寺との戦いが始まる |
| 1571年 | 38歳 | 比叡山延暦寺の焼き討ち |
| 1573年 | 40歳 | 足利義昭を京都から追放 |
| 1574年 | 41歳 | 伊勢長島の一向一揆を制圧 |
| 1575年 | 42歳 | 長篠の戦いで武田勝頼を破る。越前の一向一揆を制圧 |
| 1576年 | 43歳 | 安土城の築城開始 |
| 1577年 | 44歳 | 安土山下町中掟書を定める。右大臣に就任(翌年辞任) |
| 1580年 | 47歳 | 石山本願寺と和睦。大和国で指出検地 |
| 1582年 | 49歳 | 武田氏を滅ぼす。6月2日、本能寺の変で死去 |
因果関係マップ
織田信長が関わった歴史的事件の因果関係。
桶狭間の戦い
楽市楽座の実施
長篠の戦い
宗教勢力との戦い
関連するクイズ問題
よくある質問
5件
- 織田信長は何をした人?
- 戦国時代に尾張から勢力を広げ、足利義昭を奉じて上洛し、畿内を中心に広い地域を支配した武将です。楽市楽座や関所の撤廃、撰銭令、指出検地などの政策を行い、宗教勢力との戦いや長篠の戦いでの鉄砲の大量使用でも知られます。1582年、本能寺の変で家臣の明智光秀に背かれて亡くなりました。
- 織田信長の政策一覧は?
- 主な政策は、楽市・楽座、関所の撤廃、撰銭令(1569年)、指出検地、城下町づくりと家臣の城下集住、キリスト教の布教許可、比叡山や一向一揆・石山本願寺など宗教勢力との戦い、鉄砲の組織的な活用です。時期と内容は、このページの「主な政策一覧」の表にまとめています。
- 楽市楽座は織田信長が始めたの?
- 信長が最初ではありません。1549年の六角氏の文書に、観音寺城下の石寺新市を「楽市」とする記述があるのが初見とされ、今川氏なども早くから楽市令を出しています。信長は1567〜68年に美濃加納、1577年に安土で楽市楽座の法令を出し、最もよく知られる例になりました。
- 長篠の戦いの「三段撃ち」は本当?
- はっきりしていません。1575年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍が多数の鉄砲を使ったことは諸史料が伝えていますが、鉄砲隊が交代で撃つ「三段撃ち」は太田牛一の『信長公記』に具体的な記述がなく、江戸時代の読み物に由来するとして否定的な研究があります。鉄砲の数も約1000挺とする史料と3000挺とする史料があります。
- 織田信長は何歳で亡くなった?
- 天正10年(1582年)6月2日、京都の本能寺で家臣の明智光秀に襲われ、数え年49歳で亡くなりました(本能寺の変)。