戦国 1467年頃〜1590年
城下町の構造
城下町は身分別の居住区分とあて曲げなどの防衛的設計を持つ計画都市で、軍事・行政・商業の機能が集積した。

シナリオ
寺町、あて曲げ——。城下町の設計に関わる奉行として、町の造りをどうするか問われた。
あなたの判断は?
重要事実
- 城下町は武家地・町人地・寺町などに身分ごとに厳格に区画され、それぞれの居住区が定められていた。
- 敵軍の集結を防ぐために広場は作られず、あて曲げや丁字路によって見通しを悪くする設計が施された。
- 武士は城外の城下に住まわされ、寺院は城下町の周縁部にまとめて配置された。
覚えておくこと
城下町は身分別の居住区分とあて曲げなどの防衛的設計を持つ計画都市で、軍事・行政・商業の機能が集積した。
城下町の構造戦国
戦国時代とは
応仁の乱以降、全国の大名が覇権を争った群雄割拠の時代。戦国大名は独自の分国法を制定し、領国経営を行った。1543年の鉄砲伝来は戦術を根本から変え、1549年のキリスト教伝来は文化的衝撃をもたらした。この混乱を収束に向かわせたのが織田信長である。信長は楽市楽座で経済基盤を強化し、長篠の戦いで鉄砲の集団運用を実証し、比叡山焼き討ちや石山本願寺との戦いで宗教勢力の軍事力を削いだ。本能寺の変(1582年)で信長が倒れた後、豊臣秀吉が天下統一を完成。太閤検地と刀狩りで兵農分離を推進し、身分制度の基礎を築いた。
この因果をゲームで動かしてみる
クイズで触れた人物や出来事が、『日本史因果クロニクル』ではカードとして登場します。史実の因果でコンボを組むデッキ構築ローグライク、体験版をブラウザで遊べます。
城下町の構造とは — くわしい解説
戦国大名が築いた城下町は、単なる商業集積地ではなく、軍事・行政・経済が重なり合う計画都市でした。城を中心に内郭・外郭を配し、武家屋敷を武家地として城近辺に、町人は町人地に、寺院は外縁部の寺町にまとめ、身分ごとの住み分けを厳格に行います。街路は見通しを遮るあて曲げや丁字路を多用し、敵軍が直線的に攻め入ることを防ぎました。広場を中心に据える発想は採られず、むしろ広い空間は敵の集結点となるとして避けられます。寺町を外郭防御線として機能させる工夫は、浄土真宗の寺内町の経験を取り込んだものでもありました。家臣団の屋敷地は格式に応じて区画面積が定められ、序列が空間に書き込まれていた点も特徴的です。こうした防御思想と身分別ゾーニングが、兵農分離のもとで近世都市の骨格として安定し、江戸の町割りへと受け継がれていくのです。