足利義満の肖像
室町

足利義満

あしかがよしみつ

1358年 〜 1408年 | 第3代将軍・太政大臣

室町幕府第3代将軍。約60年間続いた南北朝の合一を1392年に実現し、室町幕府の最盛期を築いた。明との勘合貿易を開始して経済基盤を強化し、金閣寺(鹿苑寺)に象徴される北山文化を開花させた。武家でありながら太政大臣に任官し、天皇の権威に迫る地位を獲得した。義満の治世は室町時代の安定期であり、彼の死後に幕府の求心力が急速に低下した事実が、その存在の大きさを逆説的に証明している。

足利義満は何をした人?

  1. 1 有力な守護大名を抑え、将軍の力を強めた

    義満は1367年、父・義詮の死によって数え10歳で家督を継ぎ、翌1368年に征夷大将軍となりました。幼い間は管領の細川頼之が政治を支えましたが、1379年の康暦の政変で頼之は失脚します。成長した義満は、1390年に土岐康行、1391年の明徳の乱で山名氏清、1399年の応永の乱で大内義弘と、大きな勢力を持つ守護大名を次々に討ち、将軍の権力を強めました。

  2. 2 南北朝の合一を実現した(1392年)

    朝廷は半世紀以上にわたって、京都の北朝と吉野の南朝に分かれていました。義満は1392年(明徳3年)閏10月、南朝の後亀山天皇を京都に迎え、北朝の後小松天皇に三種の神器を渡させて、南北朝を一つにしました。合意では、皇位を両方の系統から交互に出す(両統迭立)などの条件が示されましたが、1412年に後小松天皇が皇子の称光天皇に譲位したことで守られず、反発した南朝側の勢力は「後南朝」として活動を続けました。

  3. 3 花の御所を築き、公家社会でも頂点に立った

    1378年、義満は京都の室町に新しい邸宅「花の御所」(室町第)を造って移りました。朝廷の官位も上げ、1382年に左大臣、1383年には皇后などに準じる待遇の准三后となります。1394年12月に将軍職を子の義持に譲ると、同じ月に太政大臣に就任し、翌1395年に辞して出家しました。出家後も、明との外交を自ら進めるなど、政治の中心にあり続けました。

  4. 4 明と国交を開き、日明貿易(勘合貿易)を始めた

    1401年、義満は「日本国准三后源道義」の名で、博多の商人・肥富と僧の祖阿を明へ派遣しました。翌1402年に届いた明の建文帝の詔書には「日本国王源道義」と記され、続く永楽帝は義満を正式に日本国王に封じます。義満も「日本国王臣源」と名乗り、1404年からは勘合を用いた朝貢形式の貿易が始まりました。貿易は幕府に大きな利益をもたらしましたが、明の皇帝の臣下の形をとることには、公家・武家・僧から多くの非難もありました。

  5. 5 金閣に代表される北山文化を育てた

    1397年、義満は鎌倉時代の公卿・西園寺公経の別荘を譲り受け、京都の北山で北山殿の造営を始めました。その象徴が金閣です。この時代の、武家・公家・禅宗(唐様)の文化が融け合った文化を北山文化と呼びます。義満は猿楽(能)の観阿弥・世阿弥父子を庇護し、五山制度を整え、1382年には相国寺の建立も始めていました。北山殿は義満の死後、遺言によって禅寺となり、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名づけられました。

足利義満の年表

年は和暦の年に対応する西暦で示しています(旧暦の年末の出来事は、西暦の日付では翌年にあたる場合があります)。年齢は数え年です。

年 年齢(数え年) 出来事
1358年 1歳 2代将軍・足利義詮の子として誕生
1367年 10歳 父・義詮の死により家督を継ぐ。細川頼之が管領として補佐
1368年 11歳 12月、征夷大将軍に就任
1378年 21歳 室町に花の御所(室町第)を造営して移る
1379年 22歳 康暦の政変。細川頼之が失脚
1382年 25歳 左大臣に就任。相国寺の建立を開始
1383年 26歳 准三后となる
1390年 33歳 土岐康行の乱
1391年 34歳 明徳の乱で山名氏清を討つ
1392年 35歳 閏10月、南北朝の合一
1394年 37歳 12月、将軍職を義持に譲り、太政大臣に就任
1395年 38歳 太政大臣を辞して出家
1397年 40歳 北山殿(金閣を含む)の造営を開始
1399年 42歳 応永の乱で大内義弘を討つ
1401年 44歳 肥富・祖阿を明へ派遣
1402年 45歳 明の建文帝から「日本国王源道義」あての詔書が届く
1404年 47歳 勘合を用いた日明貿易が始まる
1408年 51歳 5月6日に死去

因果関係マップ

足利義満が関わった歴史的事件の因果関係。

1

南北朝の合一

役割 仲介者・実行者
結果 約60年間の分裂を終結させ、全国的な統治秩序を回復した
2

勘合貿易の開始

役割 主導者
結果 明との正式な貿易で莫大な利益を得て、幕府の財政基盤を強化した
3

北山文化の庇護

役割 庇護者
結果 武家文化と公家文化が融合した北山文化が開花し、金閣寺が象徴的建造物となった

関連するクイズ問題

よくある質問

5件
足利義満は何をした人?
室町幕府の第3代将軍です。有力な守護大名を抑えて将軍の権力を強め、1392年に南北朝の合一を実現しました。明と国交を開いて日明貿易(勘合貿易)を始め、金閣を中心とする北山殿を造営して北山文化を育てた人物として知られます。
足利義満と北山文化の関係は?
北山文化は、義満の時代を中心とする、武家・公家・禅宗の文化が融け合った文化です。義満が京都の北山に造営した北山殿の金閣(のちの鹿苑寺)が代表的な建築で、義満が庇護した観阿弥・世阿弥父子が猿楽(能)の分野で活躍しました。
足利義満が「日本国王」と名乗ったのはなぜ?
明との貿易は、明の皇帝の臣下として貢ぎ物を納める朝貢の形で行われたため、義満は明から「日本国王」に封じられ、自らも「日本国王臣源」と称しました。これにより大きな貿易の利益を得た一方、当時から批判もありました。義満が天皇の位をうかがっていたとみる説(皇位簒奪説)もありますが、直接の証拠はないとする反論も多く、評価は分かれています。
南北朝の合一はいつ?
1392年(明徳3年)閏10月です。南朝の後亀山天皇が京都に戻り、北朝の後小松天皇に三種の神器を渡しました。皇位を両系統から交互に出すなどの条件は、のちに守られませんでした。
足利義満は何歳で将軍になり、何歳で亡くなった?
応安元年(1368年)12月に数え年11歳で征夷大将軍となり、応永15年(1408年)5月6日に数え年51歳(満49歳)で亡くなりました。朝廷は死後に太上天皇の尊号を贈ろうとしましたが、子の義持が辞退しています。

参考資料

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