半済令とは
半済令(はんぜいれい)とは、室町幕府が守護に対して、荘園・公領の年貢の半分を兵粮(軍費)として徴収し、配下の武士に預けることを認めた法令です。最初のものは1352年(観応3年)7月に出され、対象は近江・美濃・尾張の三国、期間は一年限りという臨時の軍事措置でした。その後、対象と期間はしだいに広がり、1368年の応安の半済令で恒常的な制度となって、守護が荘園を支配し守護大名へ成長していく足がかりになりました。
最初の対象である近江・美濃・尾張の三国を起点に、対象地域、期間、分けるものの三点を比べます。1352年の臨時措置と1368年の法令を、同じ内容として覚えないことが大切です。
「半済」という言葉のもとの意味
Wikipediaによれば、半済はもともと「年貢などを半分納める」という意味の言葉でした。それが南北朝時代になると、守護が軍費をまかなうために年貢の半分を軍勢に預け置くことを指すようになります。
その前提にあったのが**兵粮料所(ひょうろうりょうしょ)**です。精選版日本国語大辞典は兵粮料所を、幕府が兵粮米にあてるため、一年を限って本所領(公家や寺社などの荘園領主の所領)の年貢を武士に与えるよう指示した土地と説明しています。日本大百科全書によれば、南北朝の内乱期には各国の守護が朝廷の承認なく兵粮料所を乱発し、それが幕府による半済法公布のきっかけの一つになりました。
つまり半済令には、戦場で広がっていた年貢の取り分けを、幕府が範囲と期間を区切って認めたという面もあります。百科事典マイペディアは、室町幕府が半済の期間と範囲を限定しようと努めたと説明しています。
観応の半済令(1352年)
背景は観応の擾乱と南北朝の内乱
1350年から1352年にかけて、室町幕府は内部分裂の状態にありました。将軍足利尊氏と執事の高師直の側と、尊氏の弟・足利直義の側が争った観応の擾乱です。1351年2月に高師直が殺され、同年10月には尊氏が南朝に降って一時的に「正平一統」が成立し、1352年2月に直義が鎌倉で急死して擾乱は決着します。→ 観応の擾乱 / 足利尊氏
ただし、擾乱の結果として南朝は勢いを保ち、南北朝の動乱は長引きます。幕府は、各地で戦う武士たちの兵粮をどうまかなうかという問題を抱え続けました。半済令は、この戦時下で出された法令です。→ 南北朝の動乱
三国・一年限り・年貢の半分
改訂新版世界大百科事典によると、観応の擾乱が終わった1352年(正平7・文和元年)7月、幕府は内乱が激しく戦われた近江・美濃・尾張の3か国について、本所領の年貢の半分を兵粮料所として割き、1年間に限って軍勢に預け置くよう守護に命じました。Wikipediaは、これを現存する最初の半済令としています。
| 項目 | 観応の半済令の内容 |
|---|---|
| 年 | 1352年(観応3年)7月 |
| 対象国 | 近江・美濃・尾張の三国 |
| 対象 | 本所領(荘園領主の所領)の年貢 |
| 取り分 | 年貢の半分を兵粮料所とする |
| 期間 | 一年限り |
| 実行 | 守護が軍勢(配下の武士)に預け置く |
この年の年号は、北朝では観応3年ですが、同じ年のうちに文和と改元されたため、辞典によっては「文和元年」、南朝の年号で「正平7年」とも表記されます。年号が違っても、指している法令は同じです。
すぐに8か国へ広がる
臨時措置だった半済は、すぐに範囲が広がります。改訂新版世界大百科事典やWikipediaは、翌8月に伊勢・志摩・伊賀・和泉・河内の5か国が加えられ、対象が8か国になったと説明しています。なお、日本大百科全書などは5か国の追加を「翌年」としており、追加の時期は辞典によって書き方が異なります。
延文・応安へ──臨時措置から恒常的な制度へ
一年限りのはずだった半済は、その後も繰り返し出されます。世界大百科事典によれば、現地では土地そのものを折半する動きなども現れ、半済は1355年8月、1357年(延文2年)9月、1368年の半済令へと引き継がれて、恒常的な政策として定着していきました。山川日本史小辞典も、武家が半済を口実に下地(土地そのもの)の折半を取り、兵粮料所が常態化して実質的な武家領になったと説明しています。
応安の半済令(1368年)
応安の半済令は、1368年(応安元年)6月17日に室町幕府が出した法令で、「寺社本所領事」「応安大法」とも呼ばれます。Wikipediaは、足利義満のもとで最初に開かれた評定始の際に定められたとしています。当時は、前年の1367年に管領となった細川頼之が、幼い義満を補佐していました。→ 足利義満
内容の特徴は二つあります。
一つめは、半済をしてはならない土地を定めたことです。禁裏・仙洞の御料所(天皇や上皇の所領)、寺社が一円に支配する仏神領、摂関家の殿下渡領などは半済の対象から外され、足利義詮の代以来、本所が一円に知行してきた土地も保障されました。
二つめは、それ以外の本所領について、下地(土地そのもの)を本所側と半済を受ける武士の側とで半分ずつに分けることを認めた点です。観応の半済令が「年貢の半分」を一時的に預けるものだったのに対し、応安の半済令は「土地の半分」を期限なく分ける制度になりました。
このため応安の半済令には、禁裏・仙洞御料所や寺社一円仏神領、殿下渡領などを守る法という面と、それ以外の荘園の半分を武士の取り分として公認する法という面が同居しています。細川頼之の項目でWikipediaが、公家や寺社の荘園を保護する半済令として紹介しているのは前者の面です。世界大百科事典(旧版)は、この法令によって天皇家・摂関家領や寺社領、一般の公家領、武家領の区分がひとまず安定したと説明しています。
半済から守護大名へ──前後の因果
鎌倉時代の守護は「軍事・警察」の役職
Wikipediaによれば、鎌倉時代の守護の権限は大犯三カ条の検断という軍事・警察面に限られ、国司の仕事である国衙の行政や国衙領の支配に関わることは禁じられていました。→ 守護・地頭 / 源頼朝
室町幕府が守護の権限を広げていく
室町幕府は、南北朝の内乱を戦い抜くために守護の権限を段階的に広げます。Wikipediaの守護大名の項目に沿って並べると、次のようになります。
- 1346刈田狼藉の検断権・使節遵行権守護の職権に新たに加えられる
- 1352観応の半済令近江・美濃・尾張の三国で、年貢の半分を一年限りで兵粮料所とする
- 1355・1357半済令が続く範囲と期間を区切りながらも、半済が繰り返されて定着していく
- 1368応安の半済令除外地を定めたうえで、本所領の下地の折半を恒常的に認める
- 室町期段銭・棟別銭の徴収、守護請守護が国内に課税し、荘園の年貢納入も請け負って支配を強める
守護請──年貢の納入を請け負う
半済と並んで守護の荘園支配を進めたのが**守護請(しゅごうけ)**です。Wikipediaは守護請を、守護が荘園領主から荘園・国衙領の年貢納入を請け負い、一定額を領主に納めることを条件に支配を任される仕組みと説明しています。鎌倉時代の地頭請がその前例です。→ 地頭請地頭請との違いは地頭請と守護請の違いで比較しています。
| 仕組み | やり方 | 守護の側から見た意味 |
|---|---|---|
| 半済 | 荘園を分割し、その一部を武士の側が支配する | 年貢や土地の半分を配下の武士に分け与えられる |
| 守護請 | 一定額の年貢納入を約束して、荘園の支配を請け負う | 荘園の現地支配を握れる |
同じ項目によれば、守護請でも旱魃などを理由にした年貢の未進(未納)が毎年のように起き、請所は実質的な守護領へと変わっていきました。守護請は守護領の拡大を大きく促し、荘園公領制の崩壊を早めたとされます。
国人の被官化と守護大名
半済で得た土地や年貢を配下に分け与えられるようになった守護は、国内の武士である国人を被官(家臣)として組織していきます。こうして、軍事・警察の役職だった守護が、国内の荘園・公領や武士を広く支配する存在へと変わりました。これを守護大名、その支配の体制を守護領国制と呼びます。→ 守護大名 / 守護領国制
日本大百科全書は、守護が下地を分割して荘園領主と武士が半分ずつ領有する形へ移していったことが、荘園制の解体と大名による領国支配を進めたと説明しています。
ここまでの流れを一本にすると、次のようになります。
観応の擾乱と南朝との戦いで軍費が必要になる → 1352年、三国・一年限りで年貢の半分を兵粮料所に(観応の半済令)→ 対象国の拡大と半済令の繰り返し → 1368年、除外地を定めて下地の折半を恒常化(応安の半済令)→ 守護請や段銭の徴収も加わり、守護が国人を被官化 → 守護大名・守護領国制へ → 荘園制の解体が進む
よくある混同
- 三国は「近江・美濃・尾張」:あとから加わった伊勢・志摩・伊賀・和泉・河内と混ぜない。
- 観応は「年貢の半分」、応安は「下地(土地)の半分」:どちらも「半分」なので、何を分けたかで区別する。
- 1352年は擾乱が終わった年:観応の擾乱が始まった1350年と、半済令の年を取り違えない。
- 半済と守護請は別の仕組み:半済は分割、守護請は定額での請け負い。
確認クイズ
問1 最初に半済が認められた三国はどこでしょう。
答え:近江・美濃・尾張です。1352年の観応の半済令で、一年限りで認められました。
問2 1368年、禁裏仙洞御料所や寺社一円仏神領などを除き、本所領の下地を半分ずつに分けることを認めた法令は何でしょう。
答え:応安の半済令(寺社本所領事・応安大法)です。
問3 守護が荘園領主から年貢の納入を請け負い、一定額を納めるかわりに荘園の支配を任された仕組みは何でしょう。
答え:守護請です。鎌倉時代の地頭請が前例です。
守護の立場で半済令の中身を判断する形の問題は、因果クイズの「半済令」で試せます。
まとめ
- 半済令は、室町幕府が守護に荘園・公領の年貢の半分を兵粮として徴収させることを認めた法令。
- **最初の観応の半済令(1352年7月)**は、近江・美濃・尾張の三国に限り、一年限り、年貢の半分という臨時措置。その後8か国に広がった。
- **応安の半済令(1368年6月)**は、天皇家・摂関家・寺社の所領などを除いたうえで、下地の折半を期限なく認めた。
- 半済・守護請・段銭の徴収などを通じて、守護は国人を被官化し、守護大名へと成長した。
「三国・一年・年貢」から「諸国・恒常・下地」へ。半済令の変化は、室町時代に武士が荘園を取り込んでいく過程そのものです。
参考資料
- コトバンク「半済」(デジタル大辞泉、精選版日本国語大辞典、改訂新版世界大百科事典、日本大百科全書(ニッポニカ)、百科事典マイペディア)
- コトバンク「兵粮料所」(精選版日本国語大辞典、日本大百科全書(ニッポニカ)、改訂新版世界大百科事典、山川 日本史小辞典ほか)
- コトバンク「応安半済令」(世界大百科事典(旧版))
- Wikipedia「半済」
- Wikipedia「観応の擾乱」
- Wikipedia「寺社本所領事」
- Wikipedia「細川頼之」
- Wikipedia「守護大名」
- Wikipedia「守護請」


