木戸孝允
きどたかよし
画像: Wikimedia Commons
維新の三傑の一人。長州藩の中心人物として、薩長同盟では長州側代表として坂本龍馬の仲介を受け入れた。桂小五郎の名でも知られ、池田屋事件や蛤御門の変など幕末の激動を生き抜いた。維新後は五箇条の御誓文の起草に関与し、版籍奉還・廃藩置県を大久保とともに推進した。立憲政治と教育制度の確立を一貫して主張し、明治国家の文治路線の基礎を築いた。西南戦争中に病死。
木戸孝允は何をした人?
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1 長州藩の中心人物として幕末を生き抜いた
木戸孝允は1833年、長州藩の藩医・和田昌景の子として萩に生まれ、1840年に数え8歳で桂家の養子となりました。「桂小五郎」の名で知られるのはこのためです。1849年に吉田松陰に学び、1852年に江戸へ出て剣術道場の練兵館に入門し、塾頭を務めました。1864年の池田屋事件では難を逃れ、禁門の変の後は但馬の出石に潜伏しています。1865年に長州へ戻ると藩政の中心に立ち、藩主から木戸の姓を与えられました。
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2 薩長同盟を結び、倒幕への道を開いた
木戸は藩の重職として、長州藩の藩論を討幕へと導きました。1866年(慶応2年)正月には、長州藩の代表として京都で薩摩藩との同盟(薩長同盟、薩長連合)を結んでいます。対立していた両藩の間は、坂本龍馬・中岡慎太郎らが取り持ちました。この同盟によって、長州藩と薩摩藩が手を組んで幕府に対抗する道が開かれ、のちの王政復古と新政府の樹立につながっていきます。
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3 五箇条の御誓文をまとめた
1868年に出された五箇条の御誓文は、新政府の基本方針を示したものです。もとになったのは、由利公正が起草した五箇条と、福岡孝弟が起草した五箇条でした。木戸はこれらに手を加え、第一条を「広ク会議ヲ興シ」とする改変や第四条の新たな挿入などを行い、国の基本方針として整えました。新政府では参与に任じられ、以後も政府の中心で改革を進めていきます。
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4 版籍奉還・廃藩置県で中央集権化を進めた
木戸は、藩が治めていた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返させる版籍奉還の実現に力を尽くしました。1869年1月には薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主が連名で奉還を願い出ています。1870年に参議となり、1871年7月14日には廃藩置県の詔が出され、藩が廃止されて府県が置かれました。これにより、明治政府が全国を直接治める中央集権体制への移行が大きく進みました。
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5 岩倉使節団で欧米を見て、立憲政治を段階的に進めようとした
1871年、木戸は岩倉使節団の全権副使として欧米を回り、1873年7月に帰国しました。滞在中の1872年にはドイツで青木周蔵に憲法草案の作成を命じ、帰国後に憲法制定の建言書を政府に提出しています。立憲制を段階的に整える考えを唱え、1874年に台湾出兵に反対して参議を辞めましたが、1875年の大阪会議で立憲制の導入を条件に参議へ復帰しました。同年4月14日には漸次立憲政体樹立の詔が出されています。
木戸孝允の年表
年は和暦の年に対応する西暦で示しています(旧暦の年末の出来事は、西暦の日付では翌年にあたる場合があります)。年齢は数え年です。
| 年 | 年齢(数え年) | 出来事 |
|---|---|---|
| 1833年 | 1歳 | 長州藩の藩医・和田昌景の子として萩に誕生 |
| 1840年 | 8歳 | 桂家の養子となる |
| 1849年 | 17歳 | 吉田松陰に学ぶ |
| 1852年 | 20歳 | 江戸へ出て練兵館に入門(のちに塾頭) |
| 1864年 | 32歳 | 池田屋事件で難を逃れる。禁門の変の後、但馬出石に潜伏 |
| 1865年 | 33歳 | 長州に戻り藩政の中心に。藩主から木戸の姓を与えられる |
| 1866年 | 34歳 | 正月、京都で薩長同盟を結ぶ |
| 1868年 | 36歳 | 五箇条の御誓文の成立に関与。参与に就任 |
| 1869年 | 37歳 | 版籍奉還(1月に薩長土肥の4藩主が上表) |
| 1870年 | 38歳 | 参議に就任 |
| 1871年 | 39歳 | 7月、廃藩置県。岩倉使節団の全権副使として欧米へ出発 |
| 1873年 | 41歳 | 7月に帰国。憲法制定の建言書を提出 |
| 1874年 | 42歳 | 台湾出兵に反対して参議を辞任 |
| 1875年 | 43歳 | 大阪会議を経て参議に復帰。4月、漸次立憲政体樹立の詔 |
| 1876年 | 44歳 | 参議を辞し、内閣顧問となる |
| 1877年 | 45歳 | 西南戦争のさなか、5月26日に京都で病死 |
因果関係マップ
木戸孝允が関わった歴史的事件の因果関係。
薩長同盟の締結
五箇条の御誓文
廃藩置県の推進
関連するクイズ問題
よくある質問
5件
- 木戸孝允は何をした人?
- 長州藩出身の政治家で、西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれます。1866年に長州藩の代表として薩長同盟を結び、明治政府では五箇条の御誓文の成立に関わったほか、版籍奉還・廃藩置県を進め、立憲政治を段階的に整えることを唱えました。
- 木戸孝允と桂小五郎は同じ人?
- 同じ人物です。1840年に桂家の養子となって桂小五郎と名乗り、1865年に藩主から木戸の姓を与えられました。「孝允」は「たかよし」と読み、「こういん」と読まれることもあります。
- 薩長同盟で木戸孝允は何をした?
- 1866年(慶応2年)正月、長州藩の代表として京都で薩摩藩との同盟を結びました。対立していた両藩の間は、坂本龍馬・中岡慎太郎らが取り持っています。木戸は藩の重職として、長州の藩論を討幕へと導いた中心人物でした。
- 五箇条の御誓文を書いたのは木戸孝允?
- 木戸が一人で書いたわけではありません。由利公正の案と福岡孝弟の案をもとに、木戸が第一条の改変や第四条の追加などを行い、国の基本方針として最終的な形に整えました。
- 木戸孝允は何歳で亡くなった?
- 1877年5月26日、西南戦争のさなかに京都で亡くなりました。数え年45歳(満43歳)でした。死因は、大腸がんが肝臓に転移したものとされています。