北条時宗
ほうじょうときむね
画像: Wikimedia Commons
鎌倉幕府第8代執権。モンゴル帝国(元)の使者を斬るという強硬姿勢で対外交渉に臨み、文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の二度にわたる元寇を退けた。国難を乗り越えた功績は大きいが、防衛戦であったため新たな領土を獲得できず、恩賞問題が御家人の不満を招いた。元寇への対応は幕府の権威を一時的に高めたが、恩賞不足という構造的矛盾を生み、最終的には幕府衰退の引き金となった。
北条時宗は何をした人?
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1 18歳で執権となり、幕府の実権を握った
北条時宗は1251年、5代執権・北条時頼の子として鎌倉で生まれました。1257年に数え7歳で元服し、将軍・宗尊親王から名前の「宗」の字を与えられています。1264年に14歳で連署となり、1268年3月には18歳で8代執権に就任しました。1272年の二月騒動では、異母兄の北条時輔や一族の名越時章・教時らを討ち、幕府内の対立勢力を除いています。
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2 モンゴルの国書に返書せず、防衛体制を整えた
1268年正月、高麗の使者がモンゴル(のちの元)の国書を大宰府に届けました。幕府は国書を朝廷に回し、協議が重ねられましたが、日本側は返書を出さず、その後たびたび届いた国書にも返事をしませんでした。1271年には九州に所領を持つ御家人に九州への下向を命じ、翌1272年には九州の御家人に沿岸の防御を命じています。これが博多湾沿岸などを交代で守る異国警固番役の始まりで、この軍役は鎌倉幕府の滅亡まで続きました。
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3 文永の役(1274年)で元・高麗軍を退けた
1274年10月、元と高麗の連合軍(約2万8000人とされます)が対馬・壱岐を襲い、20日には博多湾西部の今津・百道原などに上陸して激しい戦いになりました。元軍はまもなく退却します。退却の理由は夜半の暴風雨だと説明されることが多いものの、暴風雨をどこまで重くみるかには議論があります。元の遠征が失敗した理由としては、混成軍の指揮官どうしの対立、兵士の士気の低さ、急ごしらえの船の悪さなども挙げられています。
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4 元の使者を処刑し、石築地(元寇防塁)を築かせた
文永の役の翌1275年、時宗は来日した元の使者・杜世忠らを鎌倉の竜ノ口で処刑し、1279年に来た使者(周福ら)も処刑しました。1276年3月からは再度の襲来に備えて、博多湾沿岸に石築地(元寇防塁)を築かせています。防塁は現在の福岡市の香椎から今津まで約20キロにわたるとされ、大部分が1931年に国の史跡に指定されました。高麗への出兵も計画されましたが、軍事費の負担などから中止されています。
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5 弘安の役(1281年)で再び元軍を退けた
1281年、元はモンゴル人・漢人と高麗人からなる東路軍(約4万人)と、南宋の降兵を主体とする江南軍(約10万人)を送りました。日本側は防塁と激しい防戦で上陸を阻み、閏7月1日の激しい暴風雨によって元軍はほぼ壊滅しました。ただ、二度の戦いはいずれも国土を守る防衛戦で、新しい領地は得られませんでした。そのため戦った御家人への恩賞が十分に行き渡らず、戦後の恩賞問題が幕府の課題として残りました。
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6 無学祖元を招き、円覚寺を開いた
時宗は禅宗を重んじ、1279年には招きに応じて宋の禅僧・無学祖元が来日しました。1282年には鎌倉に円覚寺を建て、祖元を開山としています。円覚寺の由緒によると、創建には国家の鎮護と禅を広める願いに加え、蒙古襲来で亡くなった人々を敵味方の区別なく弔う目的がありました。時宗は1284年4月4日に出家し、同じ日に数え年34歳で亡くなりました。
北条時宗の年表
年は和暦の年に対応する西暦で示しています(旧暦の年末の出来事は、西暦の日付では翌年にあたる場合があります)。年齢は数え年です。
| 年 | 年齢(数え年) | 出来事 |
|---|---|---|
| 1251年 | 1歳 | 北条時頼の子として鎌倉で誕生 |
| 1257年 | 7歳 | 元服。将軍・宗尊親王から「宗」の字を与えられる |
| 1264年 | 14歳 | 連署に就任 |
| 1268年 | 18歳 | 正月、モンゴルの国書が大宰府に届く。3月、8代執権に就任 |
| 1271年 | 21歳 | 九州に所領を持つ御家人に九州への下向を命じる |
| 1272年 | 22歳 | 二月騒動。九州の御家人に沿岸の防御を命じる(異国警固番役) |
| 1274年 | 24歳 | 10月、文永の役 |
| 1275年 | 25歳 | 元の使者・杜世忠らを竜ノ口で処刑 |
| 1276年 | 26歳 | 3月、博多湾沿岸で石築地(元寇防塁)の築造開始 |
| 1279年 | 29歳 | 無学祖元が来日。元の使者・周福らを処刑 |
| 1281年 | 31歳 | 弘安の役。閏7月1日の暴風雨で元軍がほぼ壊滅 |
| 1282年 | 32歳 | 鎌倉に円覚寺を創建 |
| 1284年 | 34歳 | 4月4日、出家し同日に死去 |
因果関係マップ
北条時宗が関わった歴史的事件の因果関係。
元寇の撃退
恩賞問題の発生
異国警固番役の設置
関連するクイズ問題
よくある質問
5件
- 北条時宗は何をした人?
- 鎌倉幕府の8代執権で、2度の元寇(1274年の文永の役、1281年の弘安の役)に対応した人物です。モンゴルの国書に返書せず、異国警固番役や博多湾沿岸の石築地(元寇防塁)で防衛体制を整えました。禅宗を重んじ、1282年に鎌倉の円覚寺を創建しています。
- 北条時宗が執権になったのは何歳?
- 1268年3月、数え年18歳で8代執権に就任しました。その前の1264年に、数え年14歳で連署になっています。
- 元寇で元軍が敗れたのは「神風」のおかげ?
- 暴風雨は大きな要因ですが、それだけではありません。弘安の役では閏7月1日の暴風雨で元軍がほぼ壊滅しましたが、それ以前から防塁と日本側の防戦が上陸を阻んでいました。文永の役の退却を暴風雨によるとする説明にも議論があり、混成軍の指揮官どうしの対立や士気の低さ、船の悪さなども遠征失敗の理由に挙げられています。
- 元寇のあと、鎌倉幕府はどうなった?
- 防衛戦だったため新しい領地が得られず、戦った御家人への恩賞が十分に行き渡らないという問題が残りました。また、九州の沿岸を守る異国警固番役は、鎌倉幕府が滅亡するまで続けられました。
- 北条時宗は何歳で亡くなった?
- 弘安7年(1284年)4月4日、数え年34歳(満32歳)で亡くなりました。同じ日に出家しています。死因は結核や心臓病などとする説があります。