源頼朝
みなもとのよりとも
鎌倉幕府の初代征夷大将軍。平治の乱で父を失い伊豆に流されたが、以仁王の令旨を機に挙兵し、弟の義経らの活躍で平氏を滅ぼした。鎌倉に幕府を開き、守護・地頭の設置で全国的な武家支配の基盤を築いた。御恩と奉公の主従関係を軸とする封建制度は、以後約700年間続く武家政治の原型となった。頼朝の最大の業績は、貴族政治から武家政治への不可逆な転換を実現したことにある。
源頼朝は何をした人?
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1 平氏を倒し、武士の政権への道を開いた
1159年の平治の乱で父・源義朝が敗れ、頼朝は翌1160年に伊豆へ流されました。1180年、以仁王の令旨を受けて挙兵します。石橋山の戦いでは敗れたものの、東国の武士を味方につけて勢いを取り戻し、同年10月に鎌倉へ入りました。その後は鎌倉にとどまって東国の支配を固め、弟の源義経らが率いる軍を西へ送り、1185年3月の壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼしました。
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2 鎌倉に政権のしくみを整えた
頼朝は鎌倉を拠点に、政権の役所を順に置きました。1180年11月には御家人を統率する侍所を置いて和田義盛を長官(別当)とし、1184年10月には一般の政務を扱う公文所(のちの政所、別当は大江広元)と、裁判を扱う問注所(執事は三善康信)を設けています。1183年には寿永二年十月宣旨によって東国の支配権を朝廷から認められ、朝廷と並び立つ武家の政権が形づくられていきました。
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3 守護・地頭の設置を朝廷に認めさせた
1185年11月、頼朝は北条時政を京都へ送り、諸国に守護・地頭を置いて任命する許可を朝廷から得ました(文治の勅許)。きっかけは、頼朝と対立した弟・義経らの追討です。これにより、兵粮米の徴収や国内の武士を動員する権限が頼朝の側に移りました。このとき置かれたのは、のちの守護より権限の大きい「国地頭」だったとする説も有力です。1189年には義経をかくまった奥州藤原氏を攻め滅ぼし、東北地方まで支配を広げました。
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4 御恩と奉公で御家人を束ねた
頼朝に従う武士は御家人と呼ばれました。将軍は御家人に、先祖伝来の領地の支配を認める「本領安堵」や、手柄に応じて新しい領地を与える「新恩給与」、守護・地頭への任命などの御恩を与えます。御家人はその見返りに、戦いに命がけで加わることや、京都大番役・鎌倉大番役などの奉公で応えました。この御恩と奉公による主従関係が、鎌倉幕府の御家人制度の根幹になりました。
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5 征夷大将軍に任じられた(1192年)
1190年に上洛した頼朝は、後白河法皇・後鳥羽天皇に会い、権大納言と右近衛大将に任じられましたが、まもなく両職を辞しました。1192年3月に後白河法皇が亡くなると、同年7月に九条兼実の計らいで征夷大将軍に任じられます。公家の日記『山槐記』の記事によると、頼朝が望んだのは「大将軍」で、朝廷が候補の称号を比べて「征夷大将軍」を選んだとされます。また、頼朝は1194年に将軍職を辞したとする記録(『尊卑分脈』)もあります。
源頼朝の年表
年は和暦の年に対応する西暦で示しています(旧暦の年末の出来事は、西暦の日付では翌年にあたる場合があります)。年齢は数え年です。
| 年 | 年齢(数え年) | 出来事 |
|---|---|---|
| 1147年 | 1歳 | 源義朝の子として誕生 |
| 1159年 | 13歳 | 平治の乱。右兵衛権佐に任じられるが、父・義朝らは敗北 |
| 1160年 | 14歳 | 伊豆国へ配流 |
| 1180年 | 34歳 | 以仁王の令旨を受け8月に挙兵。石橋山の戦いで敗れるが、10月に鎌倉入り。富士川の戦いを経て、11月に侍所を設置 |
| 1183年 | 37歳 | 寿永二年十月宣旨で東国の支配権を朝廷から承認される |
| 1184年 | 38歳 | 公文所(のちの政所)と問注所を設置 |
| 1185年 | 39歳 | 3月、壇ノ浦の戦いで平氏滅亡。11月、文治の勅許で守護・地頭の設置を承認される |
| 1189年 | 43歳 | 奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼす |
| 1190年 | 44歳 | 上洛し、権大納言・右近衛大将に就任。まもなく両職を辞任 |
| 1192年 | 46歳 | 3月、後白河法皇が死去。7月、征夷大将軍に就任 |
| 1198年 | 52歳 | 年末、相模川の橋供養からの帰路に体調を崩す(『吾妻鏡』は落馬と伝える) |
| 1199年 | 53歳 | 1月13日に死去 |
因果関係マップ
源頼朝が関わった歴史的事件の因果関係。
平氏打倒
鎌倉幕府の樹立
義経の追討
関連するクイズ問題
よくある質問
5件
- 源頼朝は何をした人?
- 平氏を倒し、鎌倉に武家政権(鎌倉幕府)を開いた人物です。侍所・公文所・問注所を置いて政権のしくみを整え、1185年に守護・地頭の設置を朝廷に認めさせ、1192年に征夷大将軍に任じられました。御恩と奉公による将軍と御家人の主従関係は、鎌倉幕府の根幹になりました。
- 源頼朝が征夷大将軍になったのはいつ?
- 建久3年(1192年)7月12日で、数え年46歳のときです。同年3月に後白河法皇が亡くなった後の任官でした。なお、頼朝が1194年に将軍職を辞したとする記録もあります。
- 鎌倉幕府ができたのは1192年?それとも1185年?
- 何をもって「成立」とみるかによって諸説あります。主なものは、挙兵して鎌倉に入り侍所を置いた1180年、東国の支配権を認められた1183年、公文所・問注所を置いた1184年、守護・地頭の設置を認められた1185年、右近衛大将に任じられた1190年、征夷大将軍に任じられた1192年です。21世紀に入り、学校教育では1185年とする扱いが広がっています。
- 御恩と奉公とは何ですか?
- 鎌倉幕府における将軍と御家人の主従関係のことです。将軍は領地の支配を認める本領安堵や、新しい領地を与える新恩給与などの「御恩」を与え、御家人は戦いへの参加や京都大番役などの「奉公」で応えました。
- 源頼朝は何歳で亡くなった?死因は?
- 建久10年(1199年)1月13日、数え年53歳(満51歳)で亡くなりました。『吾妻鏡』は前年末に相模川の橋供養の帰り道で落馬したと伝えますが、公家の日記に「飲水の病」と記したものもあり、死因ははっきりしていません。