御恩と奉公とは──土地を仲立ちにした将軍と御家人の約束
御恩と奉公とは、鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)と御家人のあいだを結んだ主従関係です。将軍が所領の保障(本領安堵)や新しい所領の給与(新恩給与)などの御恩を与え、御家人は戦時の軍役や京都大番役・鎌倉番役などの奉公でこたえました。「御恩の一つで、戦功に応じて所領を与えることを何というか」と問われたら、答えは新恩給与です。
この記事では、御恩と奉公の中身を一つずつ確認したうえで、「土地を与えて奉仕を求める」仕組みがなぜ成り立ち、なぜ揺らいだのかを因果の順に整理します。→ 御恩と奉公(一問一答)
年代と人物
| 人物 | 立場 | この記事での役どころ |
|---|---|---|
| 源頼朝 | 初代の鎌倉殿 | 御家人との主従関係を本格的に成立させた |
| 御家人 | 将軍と主従関係を結んだ武士 | 御恩を受け、奉公をつとめる |
| 北条時宗 | 執権(1268〜1284年) | 異国警固番役を設け、元寇に対応した |
| 竹崎季長 | 肥後国の御家人 | 文永の役の恩賞を求めて鎌倉に直訴した |
| 北条貞時 | 執権 | 1297年に永仁の徳政令を出した |
- 1180頼朝の挙兵・侍所の設置鎌倉を拠点に東国の武士を組織していく
- 1185守護・地頭の設置が認められる御家人を地頭に任じることが御恩の中心になる
- 1192征夷大将軍源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任じられる
- 1221承久の乱没収した所領に御家人を新しい地頭として置く
- 1271異国警固番役九州に所領をもつ御家人に、現地に下って防備につくよう命じる
- 1274・1281文永の役・弘安の役防衛戦のため、恩賞として分ける土地が得られない
- 1297永仁の徳政令御家人の所領の売買・質入れを禁じ、手放した所領を取り戻させる
- 1333鎌倉幕府の滅亡5月、新田義貞らの軍勢に攻められて滅びる
御恩の中身──将軍が御家人に与えたもの
本領安堵
本領安堵は、御家人が先祖から受け継いだ所領や、自分で開発した所領(本領)について、将軍がその支配を認めて保障することです。山川日本史小辞典は、本領安堵には武士の開発私領・相伝所領を確認するものと、失われた旧領を回復させるものの2種類があると説明しています。
武士にとって、自分の土地の権利を確かなものにしてくれる存在は何より重要でした。日本大百科全書(ニッポニカ)によれば、武士が御家人になるには、名簿(みょうぶ)を捧げて将軍の見参に入り、将軍から本領安堵の下文を受ける手続が必要でした。
新恩給与
新恩給与は、功績をあげた御家人に新しい所領を与えることです。山川日本史小辞典は「御恩」の項で、新恩給与をきわだった功績に対して新たな所領を給付することと説明し、「新恩給与」の項では、鎌倉・室町の将軍は下文によってこれを与えたとしています。
鎌倉幕府では、新恩は御家人を地頭に任命する形で与えられました。地頭を任命したり解任したりする権限は幕府だけにあり、荘園領主や国司にはありませんでした。地頭の仕事は守護と地頭の違いで詳しく整理しています。
官職の推薦や保護
御恩は土地だけではありません。コトバンクに収録された辞典は、守護・地頭職への任命、朝廷への官位の推薦、所領をめぐる争いや裁判での保護なども御恩に数えています。
| 御恩の種類 | 内容 | ひとことで |
|---|---|---|
| 本領安堵 | 先祖伝来・自分で開発した所領の支配を保障する | 今ある土地を守ってもらう |
| 新恩給与 | 功績に応じて新しい所領を与える | 新しい土地をもらう |
| 官職の推薦など | 朝廷の官位に推薦する、争いのときに保護する | 地位と身の安全 |
奉公の中身──御家人が将軍につくしたこと
山川日本史小辞典は、御家人の奉公を、戦時の従軍と大番役に代表される平時の警固などの軍事的負担と、関東御公事などの経済的負担に分けて説明しています。奉公を怠った場合には、恩給地を没収されるなどの処罰がありました。
戦時の軍役
いちばん重い奉公は、戦いが起きたときに将軍のために出陣することでした。日本大百科全書は、戦時に命を捨てる覚悟で戦陣に臨み、忠勤を励むことを奉公の第一に挙げています。
京都大番役
京都大番役は、御家人が交代で京都に上り、内裏や院御所などを警護する役です。国ごとに守護が国内の御家人を催促して上京させ、これを大番催促と呼びます。大番催促は、守護の職務である大犯三カ条の一つにも数えられています。
期間について、改訂新版世界大百科事典は6か月ないし3か月とし、『承久記』によれば、頼朝が大番役を管掌したとき、それまで3年だったものを御家人の負担を軽くするために短縮したと伝えています。日本大百科全書は、大番役が、平時に守護が国内の御家人を統率するもっとも重要な手段になったと指摘しています。
鎌倉番役
鎌倉番役は、鎌倉の将軍御所の諸門などを警固する役です。日本大百科全書によれば、つとめたのは遠江以東の東国15か国の御家人で、1か月ないし2か月で交替し、1225年(嘉禄元年)ごろに制度として整いました。
関東御公事などの経済的負担
平時には、将軍御所の修造など、さまざまな経済的負担も課されました。これらを関東御公事(関東公事)と呼びます。
背景──なぜ主従関係が「土地」で結ばれたのか
御恩と奉公のような主従関係そのものは、平安時代の中期から後期にかけて武士のあいだで少しずつ形づくられていました。Wikipediaの「御恩と奉公」の項目は、それが本格的に成立したのは源頼朝が鎌倉殿となってからで、初めはゆるやかだった主従関係が、排他的で永続的なものになったと説明しています。
当時の武士にとって、何より大切なのは自分の所領でした。所領の権利を保障し、新しい所領を与えてくれる相手のためなら命をかけて戦う。この交換が、鎌倉幕府という武家政権を支える土台になりました。
ただし、関係の濃さは一様ではありません。改訂新版世界大百科事典によれば、頼朝と東国の御家人との関係は人間的で直接的だった一方、西国の御家人との関係は最初から形式的で間接的でした。頼朝の死後は、個人的な結びつきも薄れていきます。
封建制度との関係
土地の給与と主従関係を組み合わせた仕組みは、封建制度(封建的主従関係)の典型として説明されます。改訂新版世界大百科事典は、封建制度を家士制(主従関係)と恩給制(土地の給与)の結合によって成り立つものとしています。精選版日本国語大辞典は、日本の封建制度は荘園制に芽生え、鎌倉幕府の成立とともに発展したと説明しています。
一方で、「封建制」という言葉はヨーロッパ中世の制度をもとにした概念です。改訂新版世界大百科事典は、西洋の封建制の概念をそのまま日本にあてはめることの難しさを指摘しており、山川日本史小辞典も「封建制」という語に複数の意味があることを整理しています。受験では「御恩と奉公=封建的主従関係」と押さえつつ、学問的には議論のある言葉だと知っておくと安心です。
前後の因果──元寇後の恩賞問題で揺らぐ
新たな征服地を恩賞に回せない
1274年(文永11年)の文永の役と、1281年(弘安4年)の弘安の役で、幕府と御家人はモンゴル(元)の軍勢を退けました。→ 元寇 / 北条時宗
しかし、これは外国の軍勢を追い払う防衛戦で、敵から土地を奪ったわけではありません。群馬県教育委員会の学習資料は、蒙古襲来が防衛戦だったため、幕府は恩賞として与える新しい領地を得ることができなかったと説明しています。日本大百科全書も、戦後の恩賞配分が十分でなく、参戦者の要求を満たせなかったとしています。
奉公の負担だけが続く
さらに、1271年(文永8年)から始まった異国警固番役で、九州に所領をもつ御家人は現地に下って沿岸の防備につくことを求められました。改訂新版世界大百科事典は、この役が、ゆるみながらも幕府滅亡まで続いたとしています。日本大百科全書は、継続的な防衛のための経済的負担が、御家人の窮乏に拍車をかけたと述べています。
恩賞は自分で訴え出るもの
恩賞の獲得をめぐる行動を伝えるのが、肥後国の竹崎季長と『蒙古襲来絵詞』です。文化庁の解説によると、季長は文永の役後に鎌倉へ出向き、安達泰盛に戦功を訴え、海東郷を恩賞として与えられました。「新たな征服地を得なかった」ことと「恩賞が一切なかった」ことは違います。→ 蒙古襲来絵詞
分割相続と貨幣経済
御家人を苦しめたのは元寇だけではありません。当時は子どもたちに所領を分けて相続させる分割相続が原則で、ブリタニカ国際大百科事典は、そのため御家人の所領が細かく分かれていったと説明しています。改訂新版世界大百科事典は、貨幣経済にまきこまれて御家人の貧富の差が大きくなり、困窮して所領を失う御家人が増えたことを挙げ、日本大百科全書は、蒙古襲来後の恩賞の不足と異国警固番役などの負担の増大が、御家人制の根幹を揺るがしたとしています。
永仁の徳政令
1297年(永仁5年)3月、執権北条貞時のもとで永仁の徳政令が出されました。御家人の所領の売買や質入れを禁じ、すでに手放した所領を無償で取り戻させるなどの内容です。山川日本史小辞典や日本大百科全書によれば、翌年には一部が撤回されました。→ 永仁の徳政令
なおWikipediaは、従来は困窮した御家人の救済策と理解されてきた一方、現在では御家人所領の質入れ・売買の禁止に主な目的があり、御家人体制の維持に力点があったとする解釈を紹介しています。また北条貞時の項目では、この徳政令が借金をしにくくするという逆効果を招き、かえって御家人を苦しめたと説明されています。
主従関係の中身が変わる
改訂新版世界大百科事典は、将軍と御家人の主従関係は形だけのものになり、実質的な主従関係は北条氏の嫡流である得宗と、その家臣の御内人とのあいだにこそ生きていたと思われるとしています。その表れとして、1333年に幕府が滅びたとき、多くの御内人が運命をともにした一方で、外様の御家人の大部分はそうしなかったことを挙げています。恩賞の問題だけで幕府滅亡を説明せず、得宗への権力集中など、主従関係の変化も合わせて考える必要があります。
比較表──御恩と奉公
確認クイズ
第1問
御恩の一つで、戦功に応じて所領を与えることを何といいますか。
答え:新恩給与です。 先祖伝来の所領の支配を保障する「本領安堵」と区別しましょう。
第2問
御家人が交代で京都に上り、内裏や院御所などを警護した奉公を何といいますか。また、国ごとに御家人を催促して上京させたのは何という役職ですか。
答え:京都大番役です。催促したのは守護です。 この催促(大番催促)は、守護の職務である大犯三カ条の一つです。
第3問
次の文は正しいですか、誤っていますか。 「元寇は外国の領土を奪う戦いだったため、幕府は御家人に十分な恩賞を与えることができた。」
答え:誤りです。 元寇は外国の軍勢を追い払う防衛戦で、敵から土地を奪ったわけではありません。そのため恩賞として分け与える土地が足りず、御家人の不満が高まりました。
この流れは、因果クイズの「御恩と奉公」と「元寇と影響」でも試せます。鎌倉時代の用語は鎌倉時代の一問一答でまとめて確認できます。
まとめ
- 御恩と奉公は、鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)と御家人を土地でつないだ主従関係です。
- 御恩の中心は、先祖伝来の所領を保障する本領安堵と、功績に応じて新しい所領を与える新恩給与でした。新恩は地頭への任命という形で与えられました。
- 奉公は、戦時の軍役に加え、平時の京都大番役・鎌倉番役などの警固、関東御公事などの経済的負担でした。
- この仕組みは封建的主従関係の典型として説明されますが、西洋の封建制の概念を日本にあてはめることには議論もあります。
- 元寇では恩賞に回す新たな征服地を得られず、負担の増大や分割相続・貨幣経済による窮乏も重なって、御家人と幕府の関係は揺らいでいきました。


