検非違使とは——京都の警察と裁判を受け持った令外官
検非違使(けびいし)とは、平安時代初期に置かれた、京都の治安維持と裁判を担当する役職です。律令の官制には規定がなく、あとから新しく設けられた**令外官(りょうげのかん)**の代表例にあたります。弘仁年間(810〜824年)の中ごろに置かれたと推測されており、816年(弘仁7年)の任命例がもっとも早い記録とされています。
名前は、京の中の「非違(ひい)」、つまり法に外れた行いを検察する「使」という意味です。日本大百科全書(ニッポニカ)は、初めは京中の非違の検察が中心だった検非違使が、やがて訴訟や刑罰まで扱うようになったと説明しています。
この記事では、検非違使そのものに加えて、用語問題でセットにされやすい令外官の仲間——蔵人頭・勘解由使・押領使・追捕使——を比べながら整理します。一問一答で確認したいときは検非違使の一問一答ページも使えます。
そもそも令外官とは何か
令外官は、律令の職員令に規定されていない官司・官職を指す言葉です(改訂新版 世界大百科事典)。日本大百科全書は、もともと令の官制の不備を補うために、必要に応じてその都度臨時に置かれたものだと説明しています。
律令は、古代国家がどの役所に何を担当させるかを定めた「設計図」のようなものでした。ところが実際の政治を動かしていくと、設計図に書かれていない仕事や、既存の役所では手が回らない問題が出てきます。そこへ設計図の外側から付け足された役職が令外官です。
Wikipediaの「令外官」の項目によれば、令外官は大宝律令の制定直後から置かれ始め、8世紀末の桓武天皇の時代の行政改革以降は、律令官制の不備を補うために積極的に設けられるようになりました。
代表的な令外官には、次のようなものがあります。
- 参議・中納言・内大臣
- 蔵人(蔵人所)——天皇の側近として文書や機密を扱う
- 検非違使——京都の警察・裁判
- 勘解由使——国司の交代事務を審査
- 押領使・追捕使——地方の治安維持や反乱・海賊の鎮圧
- 摂政・関白——平安中期以降、藤原北家が摂関政治で担った
- 征夷大将軍——797年に坂上田村麻呂が桓武天皇から任じられたことで知られる
旺文社日本史事典(コトバンク収録)は、令外官がのちには令制の官職が実権を失うほど重要な意味をもつようになったと指摘しています。検非違使は、まさにその典型でした。
検非違使の成立——年代と組織
いつ置かれたのか
改訂新版 世界大百科事典によると、検非違使は弘仁年間の中ごろに創置されたと推測されています。その初見は、816年(弘仁7年)に左衛門大尉となり、検非違使の仕事を兼ねたと記録される興世書主という人物です。
なお、設置年の書き方は資料によって異なります。Wikipediaの「令外官」の本文は検非違使を824年に置いたとしていますが、コトバンクに収録された辞典類は816年の初見を挙げたうえで弘仁年間中ごろの設置と推測しています。この記事では辞典の記述にそろえて「816年初見」と書いています。
山川 日本史小辞典は、824年(天長元年)に佐、834年(承和元年)に別当(べっとう)が置かれて職制が整ったとしています。
衛門府の組織を借りて始まった
検非違使は、まったく新しい役所を一から作ったわけではありません。Wikipediaの記述では、衛門府の組織を利用して創設され、衛門府の武官が宣旨によって検非違使を兼務する形をとりました。
役所の拠点である検非違使庁(使庁)は、895年に左右の衛門府の中にそれぞれ置かれ、947年に統合されて左庁だけになったとされます。
官職の構成
長官の別当(定員1人)の下に、佐(定員2人)、大尉(定員4人)、少尉、大志・少志、府生が続き、さらに現場で動く看督長(かどのおさ)、案主、火長、放免などがいました(Wikipedia「検非違使」)。
- 797ごろ勘解由使が置かれる桓武天皇の時代。国司交代のときの書類を審査する
- 810蔵人所の設置最初の蔵人頭は藤原冬嗣と巨勢野足
- 816検非違使の初見左衛門大尉の興世書主が検非違使の仕事を兼ねる
- 824検非違使に佐を置く同じ年に、いったん廃止されていた勘解由使も再び置かれる
- 834検非違使に別当を置く長官が置かれ、職制が整う
- 932追捕使の初設置南海道の海賊・凶賊の掃討が目的
- 1184源義経が検非違使に左衛門少尉・検非違使に任じられ「判官」と呼ばれる
- 1185源頼朝が日本国惣追捕使に追捕使の系譜が守護制へつながる
検非違使は何をしたのか——仕事がどんどん増えた
最初の仕事は、京の中の犯罪や違法行為を取り締まることでした。ところが日本大百科全書によると、検非違使はやがて裁判や刑罰も扱い、民事的な訴えまで受け付けるようになりました。精選版 日本国語大辞典は、令制の弾正台・刑部省・京職の職掌が検非違使に移ったとしています。Wikipediaも、検非違使が主として京都の治安維持と民政を所管し、ほかの官庁の職掌をだんだんと奪っていったと説明しています。
つまり検非違使は、律令がいくつもの役所に分けて持たせていた都の警察・裁判・行政の仕事を、ひとつの窓口に集めていった役職だといえます。宣旨によって衛門府の武官に兼務させるという身軽な作り方だったことも、実務の受け皿として膨らんでいった理由のひとつと読むことができます。
比較表——蔵人頭・勘解由使・押領使・追捕使との違い
検非違使と同じく令外官に分類される役職を、並べて比べます。
| 役職 | 初見・設置 | おもな仕事 | 活動の場 | 押さえどころ |
|---|---|---|---|---|
| 勘解由使(かげゆし) | 797年ごろ | 国司の交代時に出される解由状の審査 | 中央(地方官の監督) | 806年にいったん廃止、824年に再置 |
| 蔵人頭(くろうどのとう) | 810年(蔵人所の設置と同時) | 天皇の首席秘書。勅旨や上奏の伝達 | 宮中 | 定員2人(頭弁・頭中将)。最初は藤原冬嗣・巨勢野足 |
| 検非違使(けびいし) | 816年初見 | 京都の警察・裁判、のちに民政も | 京都 | 衛門府の武官が兼務して始まる |
| 押領使(おうりょうし) | 795年初見 | 兵の指揮から、国内の治安維持へ | 地方の国 | 国司・郡司や在地の豪族が兼任。藤原秀郷が有名 |
| 追捕使(ついぶし) | 932年 | 海賊・凶賊・反乱者の追捕 | 地方(はじめは南海道) | 小野好古が藤原純友の乱で活躍。のちの惣追捕使・守護へ |
蔵人頭——天皇のそばの機密担当
Wikipediaの「蔵人所」の項目によると、809年に平城天皇が退位したのち、平城太上天皇は旧都へ移り、天皇の命令を伝える役目の尚侍だった藤原薬子もそちらに付き従いました。これにより、嵯峨天皇は尚侍を通じて命令を出すことができなくなります。
そこで810年に置かれたのが蔵人所です。天皇の秘書役を務めると同時に、機密が太上天皇側に漏れるのを防ぐ役割もありました。実務の責任者である蔵人頭は定員2人(名目上の長は別当)で、武官から出る頭中将と、文官から出る頭弁がいました。最初に任じられたのは藤原冬嗣と巨勢野足です。
検非違使が都の外回りの治安を担ったのに対し、蔵人頭は天皇のすぐそばの事務と機密を担った、と対にすると区別しやすくなります。
勘解由使——国司の引き継ぎを審査
勘解由使は、797年(延暦16年)ごろ、桓武天皇の時代に置かれました。国司が任期を終えて交代するとき、後任が前任者の事務に問題がないことを認めて出す書類を解由状といい、それを審査するのが仕事です(Wikipedia「勘解由使」)。
806年にいったん廃止されて観察使に置き換えられましたが、交代をめぐる紛争が増えたため、824年(天長元年)に再び置かれました。再置後は国司だけでなく京の官職の交代も審査の対象に加わり、引き継ぎがうまくいかなかったときは、その理由と前任・後任双方の言い分を記した不与解由状を作ることも定められました。
押領使と追捕使——地方の武力に公的な肩書を与えた
押領使は、795年(延暦14年)に防人の移動に携わる任務として文献に初めて登場します。当初は兵の指揮に限られていましたが、やがて戦闘の指揮官としての役割を持つようになりました。国司や郡司のうち武芸に秀でた者が兼任し、しだいに土地の豪族を任命して、その私的な武力を軍事力の中心とする形が主流になります(Wikipedia「押領使」)。下野国押領使として平将門の乱の鎮圧に活躍した藤原秀郷は、その代表例です。
追捕使は、932年(承平2年)に、南海道にたびたび出没する海賊・凶賊を掃討する目的で初めて置かれました。藤原純友の乱の鎮圧にあたった小野好古が知られています。12世紀末には一国規模の警察・軍事権を持つ「惣追捕使」が現れ、1185年に源頼朝が「日本国惣追捕使」に任じられました。この制度はのちに守護制へと発展していきます(Wikipedia「追捕使」)。
武士の台頭との因果——令外官が武力の受け皿になった
ここまでの内容を因果の順に並べると、令外官と武士の台頭の関係が見えてきます。
- 律令の官制だけでは処理しきれない、都の治安や地方の反乱・海賊といった課題が出てくる。
- 令外官として、検非違使・押領使・追捕使などが置かれる。
- 地方では、実際にその仕事を担えるのは武芸に優れた者や、在地で私的な武力を持つ豪族だった。押領使には土地の豪族が任じられるのが主流になる。
- 平将門の乱では下野国押領使の藤原秀郷が、藤原純友の乱では追捕使の小野好古が、それぞれ鎮圧にあたる。
- 京都でも、源氏や平氏などの武士が検非違使に任じられる例が多くなる(Wikipediaは10世紀後半ごろからとしています)。
- 追捕使の流れは12世紀末の惣追捕使を経て、1185年に源頼朝が日本国惣追捕使に任じられ、守護制へと発展する。
- 鎌倉幕府が京都に六波羅探題を置くと、検非違使は次第に弱体化する。
源義経と「判官」
検非違使と武士の関係でもっとも有名なのが源義経です。Wikipediaによると、義経は1184年(元暦元年)8月6日に左衛門少尉・検非違使に任じられました。
「判官」は律令の四等官のうち第三位の職を指す言葉で、義経が就いた左衛門少尉・検非違使少尉がこれにあたります。そこから義経は「九郎判官」と呼ばれ、非業の死を遂げた義経に同情する気持ちを表す「判官贔屓」という言葉も生まれました。
なお、頼朝の許可を得ずに任官したことが兄弟の対立のきっかけになった、という話は『吾妻鏡』の記述にもとづきます。これについては、菱沼一憲や元木泰雄らが、この時期の任官はさほど問題になっていなかったとする見解を示しています。元木泰雄は、義経が伊予守になった後も検非違使を兼ね続けたことを決裂の決定的な要因とみており、これを支持する見解も多い一方、本郷和人のように、無断任官を対立の発端とする従来の説をとる研究者もいます(Wikipedia「源義経」)。
検非違使の衰退——侍所へ
Wikipediaによると、鎌倉幕府が六波羅探題を設置すると検非違使は次第に弱体化しました。百科事典マイペディアも、武家の興隆に伴って検非違使庁の権限は衰え、鎌倉期以降は有名無実化したとしています。
その後も活動は続き、追捕の機能は1383年、行政・司法の機能は1386年ごろまで確認されますが、室町時代には京都の治安の権限を幕府の侍所が握るようになりました。
確認クイズ
Q1. 律令の職員令に規定がなく、必要に応じてあとから置かれた官職・官司を何と呼ぶでしょうか。
答え:令外官(りょうげのかん)
検非違使・蔵人・勘解由使・押領使・追捕使・摂政・関白・征夷大将軍などが含まれます。
Q2. 810年に設けられ、藤原冬嗣と巨勢野足が最初の長官になった、天皇の秘書役を務めた機関はどこでしょうか。
答え:蔵人所(実務の責任者は蔵人頭)
平城太上天皇側に機密が漏れるのを防ぐ役割もありました。検非違使(京都の警察・裁判)と混同しないようにしましょう。
Q3. 932年に南海道の海賊を掃討するために初めて置かれ、のちに惣追捕使を経て守護制へつながっていった令外官は何でしょうか。
答え:追捕使(ついぶし)
よく似た押領使は795年が初見で、国内の治安維持を在地の豪族が担う形が主流でした。どちらも地方の武力と結びついた令外官です。
さらに演習したいときは、検非違使と武士の台頭を問う択一問題や平安時代の一問一答、因果の流れを問う平安時代の因果クイズも使えます。
まとめ
検非違使を一本の線で整理すると、次のようになります。
律令の官制では足りない課題が出てくる → 令外官が置かれる → 検非違使は衛門府の武官の兼務で始まり(816年初見)、京都の警察・裁判・民政を集めていく → 地方では押領使・追捕使が在地の武力を公的に動員する → 武士が検非違使や惣追捕使に任じられる → 守護制と六波羅探題の時代に検非違使は弱体化 → 室町時代には侍所へ
検非違使だけを覚えるより、「令外官」というグループのなかで、都(検非違使)・宮中(蔵人頭)・国司の監督(勘解由使)・地方の治安(押領使・追捕使)と、担当ごとに並べると、用語の区別がぐっと楽になります。


