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保元の乱と平治の乱の違いとは?対立の構図と源平の争乱への流れ

執筆・編集 RandaWorks 更新 2026年9月20日 11分で読める
#日本史#平安時代#武士#用語#受験

保元の乱と平治の乱の違いは「誰と誰が争ったか」と「結果」

保元の乱(1156年)は、崇徳上皇と後白河天皇の対立と、摂関家の藤原頼長と藤原忠通の対立が結びつき、源氏・平氏の武士がそれぞれ両陣営に分かれて戦った内乱で、後白河天皇方が勝ちました。平治の乱(1159年)は、その勝者の側で信西と藤原信頼が対立し、信頼と結んだ源義朝が挙兵したものの、平清盛に敗れた内乱です。保元の乱で「武士の力が政争を決める」ことが示され、平治の乱で源氏が退いて清盛が武士の第一人者になった、という順番で押さえます。

どちらの乱も、短い期間で決着しました。日本大百科全書は、二つの乱がいずれも宮廷内の権力争いに原因があり、武士の時代の到来を告げて、平氏政権が成立するきっかけになったと説明しています。→ 保元・平治の乱(一問一答)

年代と人物──対立の構図を表で整理

保元の乱(1156年)の構図

ブリタニカ国際大百科事典は、保元の乱を、藤原忠通・頼長兄弟の争いが崇徳上皇・後白河天皇兄弟の対立と結びついた戦いと説明しています。武士の一族も、親子や叔父・甥で敵味方に分かれました。

立場天皇方(勝ち)上皇方(負け)
皇室(兄弟)後白河天皇崇徳上皇
摂関家(兄弟)関白 藤原忠通左大臣 藤原頼長
源氏(親子)源義朝(為義の子)源為義、源為朝
平氏(叔父・甥)平清盛(忠正の甥)平忠正
側近信西(藤原通憲)―

平治の乱(1159年)の構図

平治の乱は、保元の乱で勝った側の内部分裂です。ここでは「襲った側」と「襲われた側」、そして最後に勝ち残った側に分けて見ると整理しやすくなります。

人物立場乱での動き結末
藤原信頼後白河上皇の近臣(院政派)源義朝と結んで挙兵し、三条殿を襲う斬首される
源義朝保元の乱で天皇方だった武士信頼と挙兵するが、六波羅の戦いで敗れる尾張国で長田忠致に殺される
源頼朝義朝の子(13歳)父とともに戦う捕らえられ、伊豆へ流される
信西(藤原通憲)後白河上皇の側近襲撃を察して逃れる山城国の田原で自害する
平清盛平氏の武士熊野詣の留守を突かれるが、京都に戻る勝ち残り、翌年武士初の公卿になる
藤原経宗・藤原惟方二条天皇の親政派信西の排除を望むが、二条天皇を六波羅へ移して清盛側につくのちに後白河上皇の命で配流される
後白河上皇1158年に二条天皇に譲位三条殿で身柄を押さえられて幽閉され、のち仁和寺に逃れる―

保元の乱(1156年)──皇室と摂関家の争いに武士が動員される

背景

百科事典マイペディアによれば、1155年に後白河天皇が即位したことで崇徳上皇の不満が高まり、摂関家でも藤原忠通と頼長が、関白や藤原氏の長である氏長者の地位をめぐって争っていました。そして1156年7月2日に鳥羽法皇が亡くなったことが、乱の直接の引き金になりました。

崇徳上皇と頼長の側は源為義・源為朝・平忠正らを招き、後白河天皇の側は源義朝・平清盛らの兵を集めます。

経過

1156年7月11日の未明、天皇方の武士が、上皇方の拠点である白河北殿を攻めました。Wikipediaによれば、天皇方では信西と義朝が先制攻撃を強く主張し、この夜襲が天皇方の勝利につながりました。上皇方は源為朝の強弓で初めは持ちこたえたものの、火が燃え移ると総崩れになります。戦いは、改訂新版世界大百科事典によれば半日で、山川日本史小辞典によれば1日で終わりました。

結果

  • 崇徳上皇は讃岐国に流されました。
  • 藤原頼長は矢傷がもとで亡くなりました。
  • 源為義と平忠正は斬首されました。山川日本史小辞典によれば、それぞれ子の義朝と甥の清盛の手によるものでした。
  • 源為朝は伊豆大島に流されました。

山川日本史小辞典は、為義・忠正らの斬首は信西の主張によるもので、810年の薬子の変以来300年以上とだえていた死刑が復活したと説明しています。京都が戦場になったこととあわせて、世の中に大きな衝撃を与えました。

乱のあと、清盛は播磨守に、義朝は左馬頭に任じられています。朝廷では信西が保元新制を定め、記録荘園券契所を再興して荘園の整理を進めるなど、政治の主導権を握りました。

改訂新版世界大百科事典は、慈円が『愚管抄』でこの乱のあとを「武者の世」になったと記したことを引き、武家政権の成立へ向かう動きを示すものと位置づけています。→ 保元の乱(一問一答)

平治の乱(1159年)──勝者どうしの争いで清盛が勝ち残る

背景

保元の乱のあと、1158年に後白河天皇は二条天皇に位を譲って上皇になりました。朝廷の中では、後白河上皇の院政を支える人々(院政派)と、二条天皇による政治を目指す人々(親政派)が対立していきます。

Wikipediaは、最大の原因を信西一門が政治を主導していたことへの反発だとしています。改訂新版世界大百科事典によれば、信西が藤原信頼の近衛大将への就任を阻んだことも対立を深めました。旺文社日本史事典は、信西と清盛の結びつきに不満をもった義朝が、信頼と手を結んだと説明しています。一方の清盛は、信西・信頼の双方と婚姻関係を結び、中立的な立場をとっていました。

経過

1159年(平治元年)12月9日、清盛が熊野詣に出かけて京都を離れた留守をねらい、信頼と義朝は後白河上皇の御所である三条殿を襲って、上皇の身柄を押さえました。信西は事前に危険を察して逃れましたが、12月13日、山城国の田原で追手に見つかり、自害します。

しかし、熊野詣から引き返した清盛が12月17日に京都に戻ると、形勢が変わります。12月25日から26日にかけて、親政派の藤原経宗・惟方らが二条天皇を清盛のいる六波羅に移し、清盛の側が天皇を奉じる官軍になりました。続く六波羅の戦いで義朝の軍は敗れます。

結果

  • 藤原信頼は斬首されました。
  • 源義朝は東国へ逃れる途中、尾張国の知多郡野間で、長田忠致に殺されました。義朝の子の源義平も、のちに処刑されています。
  • 源頼朝は1160年2月に近江国で捕らえられました。清盛の継母である池禅尼の嘆願によって死罪を免れたとされ、3月11日、14歳で伊豆国に流されました。配流地としては現在の静岡県伊豆の国市にある蛭ヶ小島が知られていますが、Wikipediaによれば、これは後世の記述で、確かなことはわかっていません。
  • 藤原経宗・惟方も、後白河上皇の命で捕らえられ、配流されました。

最大の勝者は平清盛でした。清盛は1160年6月に正三位、8月に参議となり、武士として初めて公卿の地位につきました。→ 平治の乱(一問一答) / 平清盛

比較表──保元の乱と平治の乱

保元の乱
平治の乱
年
保元の乱1156年(保元元年)7月
平治の乱1159年(平治元年)12月
きっかけ
保元の乱鳥羽法皇の死
平治の乱清盛の熊野詣の留守
対立の中心
保元の乱崇徳上皇と後白河天皇、藤原頼長と忠通
平治の乱信西と藤原信頼(院政派と親政派の対立も絡む)
武士の分かれ方
保元の乱源氏も平氏も一族が敵味方に分かれる
平治の乱源義朝と平清盛の対決
勝った側
保元の乱後白河天皇方(清盛・義朝ともに勝者)
平治の乱平清盛(二条天皇を六波羅に迎える)
敗者のその後
保元の乱崇徳上皇は讃岐へ、為義・忠正は斬首
平治の乱信頼は斬首、義朝は尾張で殺され、頼朝は伊豆へ
意味
保元の乱政争を武士の力で決着させ、「武者の世」の始まりとされる
平治の乱源氏が退き、清盛が武士初の公卿として平氏政権への道を開く
保元の乱と平治の乱の比較

前後の因果──清盛の台頭から源平の争乱へ

平氏政権の成立

平治の乱に勝った清盛は、1167年(仁安2年)2月に武士として初めて太政大臣となり、3か月ほどで辞任しました。出家したあとは、日宋貿易の拡大に力を注いでいます。

さらに清盛は、1171年に娘の徳子を入内させ、1180年には徳子が産んだ安徳天皇が即位しました。藤原氏と同じように、天皇の外戚となって権力を固める道を選んだのです。外戚の関係は外戚とはで図式とともに整理しています。

治承三年の政変

平氏の力が強まると、後白河法皇との対立が深まります。1179年(治承3年)11月、清盛は軍勢を率いて福原から京都に入り、反平氏の公卿を解任して、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉しました。

源平の争乱(治承・寿永の乱)

これに反発した以仁王が、1180年4月に平氏追討の令旨を出します。これを受けて、平治の乱で伊豆に流されていた源頼朝が、同年8月17日に伊豆で挙兵しました。→ 源頼朝

  1. 1156
    保元の乱
    後白河天皇方が勝ち、清盛と義朝がともに勝者になる
  2. 1159
    平治の乱
    清盛が信頼・義朝を破る
  3. 1160
    清盛が公卿に・頼朝が伊豆へ
    清盛は正三位・参議。頼朝は14歳で伊豆に流される
  4. 1167
    清盛が太政大臣に
    武士として初めて太政大臣となる
  5. 1179
    治承三年の政変
    清盛が後白河法皇を幽閉する
  6. 1180
    以仁王の令旨・頼朝の挙兵
    安徳天皇が即位した年に、源平の争乱が始まる
  7. 1181
    清盛の死
    閏2月に亡くなる
  8. 1183
    倶利伽羅峠の戦い
    源義仲が加賀・越中の国境で平氏軍を破り、平氏は都を落ちる
  9. 1184
    一ノ谷の戦い
    源範頼・義経らの軍が勝ち、平氏は屋島へ逃れる
  10. 1185
    屋島・壇ノ浦の戦い
    3月24日、壇ノ浦で平氏が滅びる
  11. 1189
    奥州藤原氏の滅亡
    頼朝が全国を平定する
保元・平治の乱から源平の争乱まで

1185年3月24日、壇ノ浦の戦いで平氏は滅びました。同じ年の11月には、頼朝が朝廷から守護・地頭の設置を認められ、武家政権の土台が固まっていきます。その中身は守護と地頭の違いと御恩と奉公とはで解説しています。

「源平の争乱」という言葉の範囲も、辞典によって少し違います。山川日本史小辞典は、1180年の以仁王・源頼政の挙兵から、1185年の平氏滅亡を経て、1189年に奥州藤原氏が滅び頼朝が全国を平定するまでを源平争乱としています。→ 治承・寿永の乱(一問一答) / 壇ノ浦の戦い

確認クイズ

第1問

保元の乱に敗れた崇徳上皇が流された国はどこですか。

答え:讃岐国です。 同じく上皇方で戦った源為朝は伊豆大島に流されました。

第2問

平治の乱で藤原信頼と源義朝が挙兵したとき、平清盛は何のために京都を離れていましたか。

答え:熊野詣です。 清盛は引き返して12月17日に京都に戻り、二条天皇を六波羅に迎えて官軍となり、義朝を破りました。

第3問

次の文は正しいですか、誤っていますか。 「保元の乱で、源義朝は崇徳上皇方について敗れ、伊豆国に流された。」

答え:誤りです。 保元の乱で義朝は後白河天皇方について勝ちました。義朝が敗れたのは平治の乱で、伊豆国に流されたのは子の頼朝です。

二つの乱のちがいは、因果クイズの「保元の乱」、「平治の乱」、「源平の争乱」でも試せます。平安時代の用語は平安時代の一問一答、流れは平安時代の因果クイズで練習できます。

まとめ

  • **保元の乱(1156年)**は、崇徳上皇と後白河天皇、藤原頼長と忠通の対立に、源氏・平氏の武士が一族で分かれて加わった戦いで、後白河天皇方が勝ちました。死刑が復活し、「武者の世」の始まりとされます。
  • **平治の乱(1159年)**は、保元の乱の勝者の側で信西と藤原信頼が対立し、信頼と結んだ源義朝が、熊野詣から戻った平清盛に敗れた戦いです。
  • 清盛は乱の翌年に武士初の公卿となり、のちに太政大臣、天皇の外戚として平氏政権を築きました。
  • 敗れた義朝の子・頼朝は伊豆に流され、1180年に挙兵して**源平の争乱(治承・寿永の乱)**を戦い、1185年に平氏を滅ぼしました。

参考資料

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よくある質問

5件
保元の乱と平治の乱の違いは何ですか?
保元の乱(1156年)は、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟、藤原頼長と忠通の兄弟の対立に、源氏・平氏の武士が両陣営に分かれて加わった戦いで、後白河天皇方が勝ちました。平治の乱(1159年)は、その勝者の側で信西と藤原信頼が対立し、信頼と源義朝が挙兵したものの平清盛に敗れた戦いです。保元の乱で武士の力が政争を決め、平治の乱で清盛が武士の第一人者になりました。
保元の乱の対立の構図を教えてください。
天皇方は後白河天皇・関白藤原忠通・信西(藤原通憲)で、武士は平清盛・源義朝らでした。上皇方は崇徳上皇・左大臣藤原頼長で、武士は源為義・源為朝・平忠正らでした。皇室と摂関家はそれぞれ兄弟どうし、源氏は為義と子の義朝、平氏は忠正と甥の清盛が敵味方に分かれました。
平治の乱のあと、源頼朝はどうなりましたか?
父の源義朝とともに戦って敗れ、1160年(永暦元年)2月に近江国で捕らえられました。清盛の継母である池禅尼の嘆願によって死罪を免れたとされ、同年3月、14歳で伊豆国に流されました。それから20年後の1180年、以仁王の令旨を受けて伊豆で挙兵し、治承・寿永の乱(源平の争乱)が始まります。
源平の争乱(治承・寿永の乱)とは何ですか?
1180年の以仁王の令旨と源頼朝らの挙兵から、1185年の壇ノ浦の戦いで平氏が滅びるまで続いた内乱です。「源平合戦」とも呼ばれますが、源氏と平氏の一族がそれぞれまとまって戦ったわけではなく、寺社勢力や各地の武士も加わった複雑な内乱でした。山川日本史小辞典は源平争乱を、1189年の奥州藤原氏の滅亡までを含めて説明しています。
「武者の世」とは何のことですか?
慈円が歴史書『愚管抄』で、保元の乱を境に「武者(むさ)の世」になったと記したことに由来する言葉です。朝廷の内部の争いを武士の力で決着させたこの乱が、武士の時代の始まりとして受け止められていたことを示しています。
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