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近江令とは?飛鳥浄御原令・大宝律令・養老律令との違い

執筆・編集 RandaWorks 更新 2026年9月20日 13分で読める
#日本史#飛鳥時代#律令#用語#受験

近江令とは

近江令(おうみりょう)とは、天智天皇の時代に近江大津宮の朝廷で定められたと伝わる令(りょう)です。668年(天智7年)に藤原鎌足らが編纂した全22巻の法典とされますが、刑罰を定める律は伴わず、条文は一つも伝わっていません。制定を確かめられる確実な史料がないため、存在そのものを否定する説もあり、学説が分かれています。

「近江令とは」と調べると、飛鳥浄御原令・大宝律令・養老律令とあわせて覚えるよう求められることがほとんどです。この記事では、まず近江令の根拠と存否の論争を確認し、そのうえで4つの法典を成立年・天皇・編纂者・現存状況で比べます。

そもそも「律」と「令」とは

精選版日本国語大辞典によると、律は刑法にあたり、令は行政法を中心に、訴訟法や民法、商法にあたる規定まで含む法です。唐にならった古代国家の仕組みは、この律と令を柱に組み立てられました。

日本では令の整備が先に進み、山川日本史小辞典によれば、律と令が初めてそろって編纂されたのが大宝律令です。近江令と飛鳥浄御原令が「令」、大宝律令と養老律令が「律令」と呼ばれるのは、この違いによります。

近江令の根拠になっている史料

近江令の存在を伝えるのは、主に次の史料です。

  • 『藤氏家伝』:藤原鎌足らの伝記をまとめた書物で、760年(天平宝字4年)ごろに成立しました。その上巻(大織冠伝)に、天智7年(668年)に鎌足が律令を定めたという記述があるとされます。
  • 『弘仁格式』の序文:「天智元年」に令22巻が定められ、これが「近江朝廷之令」である、という趣旨を記しています。日本大百科全書は、この年を天智天皇の即位元年(668年)として学説を紹介しています。

一方で、国家の正史である『日本書紀』には、近江令を制定したという明確な記事がありません。天智9年(670年)に朝廷での礼儀や道で行き会ったときの作法を定めた記事、天智10年(671年)に「冠位・法度の事」を施行したという記事が見えるだけです。

天智天皇の時代と近江令

  1. 645
    乙巳の変
    中大兄皇子(のちの天智天皇)が中臣鎌足らとともに蘇我入鹿を討つ
  2. 661
    称制
    中大兄皇子が即位しないまま政務をとる
  3. 663
    白村江の戦い
    倭・百済の連合軍が大敗し、百済復興の支援は失敗に終わる
  4. 667
    近江大津宮へ遷都
    天智6年3月
  5. 668
    天智天皇の即位/近江令(伝)
    天智7年。この年に鎌足らが令22巻を定めたとされる
  6. 670
    庚午年籍
    初の全国的な戸籍の作成を命じる
  7. 671
    冠位・法度の施行
    『日本書紀』天智10年の記事。同年12月、天智天皇が近江大津宮で崩御(西暦では672年1月)
  8. 672
    壬申の乱
    大海人皇子が大友皇子に勝ち、のちに天武天皇として即位
天智天皇の時代の流れ

天智天皇の時代は、白村江での敗戦のあと、都を近江大津宮に移し、戸籍を整えるなど、国内の統治の仕組みづくりが進んだ時期でした。→ 天智天皇 / 白村江の戦い / 乙巳の変

なかでも重要なのが、670年の**庚午年籍(こうごねんじゃく)**です。日本で最初の全国的な戸籍とされ、畿内から西は九州、東は常陸・上野まで作られました。一般の戸籍は6年ごとに作られて30年後に廃棄される決まりでしたが、庚午年籍は永久保存とされました。ただし現物は残っていません。改訂新版世界大百科事典は、通説では庚午年籍が近江令にもとづいて作られたとされる、と説明しています。→ 庚午年籍

近江令の存否論争──3つの立場

辞典の説明を整理すると、近江令については大きく次の立場があります。

  1. 存在説:天智朝に令22巻が編纂・施行され、のちの飛鳥浄御原令や大宝律令の土台になったとみる立場です。改訂新版世界大百科事典は、668年(天智7年)に鎌足らが編纂し、670年ないし671年までに施行されたとする見方を、通説として紹介しています。ブリタニカ国際大百科事典は、671年から689年まで施行されたとしています。
  2. 浄御原令との同一説:制定を確かめる史料がないことから、近江令と飛鳥浄御原令は同じものではないかとする説です。百科事典マイペディアや旺文社日本史事典、ブリタニカ国際大百科事典が、この説があることに触れています。
  3. 否定説(非存在説):『日本書紀』に制定記事がなく、後の時代の史料に頼るしかないことを重く見て、体系的な法典としての近江令は存在しなかったとする説です。改訂新版世界大百科事典は、この新説が有力になりつつある一方で、通説も新説も決定的な根拠があるわけではないと述べています。Wikipediaによれば、否定する側にも、令がまったく存在しなかったとみる立場から、ある程度は編纂されたが施行は限られていたとみる立場まで幅があります。

日本大百科全書は、別の切り口で三つの説を紹介しています。668年に令22巻が編纂され、681年から改められて689年に班賜されたとする説、天智朝での編纂は認めつつ681年からの編纂は浄御原令にあたるとする説、そして『藤氏家伝』や『弘仁格式』序は後代の史料で信用できないとして近江令は存在しなかったとする説です。

Wikipediaの飛鳥浄御原令の項目は、近江令を「律令制を指向する単行法令を総称したもの」で、体系的な法典ではなかったとする見方を紹介しています。『日本書紀』にも冠位や法度を施行した記事はあるので、**争点は「天智朝にまとまった法典として存在したか」**にあると整理すると、論争の輪郭がつかみやすくなります。→ 近江令

飛鳥浄御原令──天武天皇が命じ、持統天皇が施行

672年の壬申の乱に勝ち、翌673年に飛鳥浄御原宮で即位した天武天皇は、681年(天武10年)2月、皇子や臣下に律令の制定を命じる詔を出しました。天武天皇は686年に亡くなり、その後に政務をとった持統天皇のもとで、689年(持統3年)6月に令が諸官司に頒布されます。これが飛鳥浄御原令で、全22巻とされます。持統天皇が正式に即位したのは翌690年なので、施行は即位前のことでした。→ 飛鳥浄御原令 / 壬申の乱

主なポイントは次のとおりです。

  • 律は作られなかったとする説が有力:律は編纂されず、唐の律を借用・準用したとする説が有力です。唐律の体系的な伝来や、それを整理できる人材が足りなかったとする見方もあります。
  • 条文は現存しない:すべて散逸し、改訂新版世界大百科事典によれば、編目として確認できるのは戸令と考仕令の二つだけです。
  • 戸籍と班田の出発点:690年の庚寅年籍(こういんねんじゃく)は浄御原令にもとづいて作られ、以後6年ごとに戸籍を作る仕組みの出発点になりました。692年には畿内で口分田の班給が始まったと推測されています。
  • 「天皇」号との関係:Wikipediaは、天皇という称号が天武朝に定められ、浄御原令で法典に明記されたとする説を有力としています。天武天皇を最初に天皇を称した君主とみる説が有力な一方、推古天皇とみる見方もあります。

近江令との関係について、改訂新版世界大百科事典は、古くは同一視する説もあったものの、現在は別の令とするのが通説で、近江令の不存在説も有力だと説明しています。

大宝律令──律と令がそろった最初の法典

大宝律令は、701年(大宝元年)に完成した律6巻・令11巻の法典です。文武天皇のもとで、刑部親王と藤原不比等を中心に、粟田真人・下毛野古麻呂らが編纂にあたりました(改訂新版世界大百科事典は編纂者を19名としています)。唐の永徽律令(651年)と、律の注釈書である永徽律疏(653年)を手本にしており、Wikipediaは、律はほぼ唐律をそのまま取り入れ、令は唐令にならいつつ日本社会の実情に合わせて改めたと説明しています。→ 大宝律令

完成と施行の時期は、律と令で少しずれます。日本大百科全書によれば、令は700年3月に完成して701年3月から施行が始まり、律は701年8月に完成して702年2月に頒布されました。Wikipediaも、官位令が大宝建元の当日(701年)に先行して実施され、ほかの規定は翌年にかけて実施されたとしています。

  • 持統天皇は697年に文武天皇へ位を譲りましたが、太上天皇として大宝律令の制定・施行に関わったと考えられています。
  • 大宝律令の原文は現存しません。『続日本紀』や、養老令の注釈書『令集解』に引かれた「古記」などに逸文が残り、そこから一部が復元されています。
  • 山川日本史小辞典は、近年は大宝律令と養老律令の違いが強調され、大宝律令を過渡的な法典と位置づけるようになったと述べています。
  • 大宝律令は、757年に養老律令が施行されるまで国の基本法典でした。

養老律令──不比等が編纂し、孫の仲麻呂が施行

養老律令は、718年(養老2年)に藤原不比等らが編纂したとされる律10巻・令10巻の法典です。ただし、編纂の始まりと終わりの時期ははっきりしません。百科事典マイペディアは、当時の公式史料は718年完成と伝えるものの疑問があり、編纂はその後も続いて720年の不比等の死後まもなく中絶したと説明しています。日本大百科全書は撰修の終わりは定かでないとし、Wikipediaの元正天皇の項目には717年(養老元年)から編纂が始まったという記述もあります。

その後、757年(天平宝字元年)、孝謙天皇の時代に、不比等の孫にあたる藤原仲麻呂の主導で施行されました。→ 養老律令

  • 大宝律令との違いは小さい:戸令など一部に重要な改正はあるものの、全体としては語句や表現、不備の修正が中心とされます。
  • 令はほぼ復元できる:官撰の注釈書『令義解』(833年、清原夏野ら)と、私撰の注釈書『令集解』(惟宗直本、868年以前)に令の本文が引かれており、倉庫令・医疾令を除くすべての令が復元できます。
  • 律は多くが失われた:伝わるのは約3分の1で、名例律・衛禁律など一部が逸文から復元されています。
  • 形式上は明治初期まで存続:廃止の法令が出されなかったため、実質的な効力を失ったあとも、形式的には明治維新期まで存続しました。

国立公文書館デジタルアーカイブでは、内閣文庫の蔵書として、寛政年間に刊行された『令義解』(10冊)の画像を公開しています。養老令の条文がどのような形で後世に伝わったのかを確かめる入口になります。

4つの法典を比較表で整理

項目近江令飛鳥浄御原令大宝律令養老律令
成立・施行668年に編纂とされる(施行時期は諸説)681年に編纂の詔、689年に頒布701年完成(令は701年、律は702年から施行)718年に編纂とされる(時期に異説)、757年に施行
天皇天智天皇天武天皇(詔)・持統天皇(施行)文武天皇(持統太上天皇も関与)元正天皇(編纂時)・孝謙天皇(施行)
中心人物藤原鎌足ら(伝)天武天皇が皇子・臣下に命じる刑部親王・藤原不比等ら藤原不比等(編纂)・藤原仲麻呂(施行)
構成令22巻とされる(律なし)令22巻(律は作られず唐律を準用とする説が有力)律6巻・令11巻律10巻・令10巻
現存状況現存しない現存しない原文は現存せず、逸文から一部復元令はほぼ復元できる。律は約3分の1
論点存在そのものに否定説・同一説律の有無、天皇号の法制化など養老律令との違いをどう評価するか完成時期が定かでない。形式上は明治初期まで存続

前後の因果──なぜ法典づくりが続いたのか

4つの法典は、ばらばらの出来事ではなく、ひとつの国家づくりの流れの中にあります。

白村江の敗戦と近江大津宮への遷都 → 庚午年籍で人民を把握(近江令はこの時期に定められたと伝わる)→ 壬申の乱に勝った天武天皇が律令制定を命じる → 持統天皇のもとで飛鳥浄御原令を施行し、庚寅年籍と班田へ → 大宝律令で律と令がそろい、律令国家の骨格ができる → 養老律令が757年に施行され、形式上は明治初期まで続く

とくに「戸籍を作る → 班田を行う → 税を取る」という仕組みは、法典の整備と一体で進みました。庚午年籍、庚寅年籍という二つの戸籍を法典の流れに重ねると、年号も覚えやすくなります。土地制度については三世一身法と墾田永年私財法も参照してください。

確認クイズ

問1 668年に定められたと伝わり、条文が残らず存在を否定する説もある令は何でしょう。また、その時代の天皇は誰でしょう。

答え:近江令、天智天皇です。

問2 律と令が初めてそろって編纂された法典で、701年に完成したものは何でしょう。中心となった編纂者を2人挙げてください。

答え:大宝律令です。刑部親王と藤原不比等が中心となりました。

問3 718年に藤原不比等らが編纂したとされ、757年に藤原仲麻呂の主導で施行された法典は何でしょう。

答え:養老律令です。

場面つきの問題で確かめたい場合は、因果クイズの「近江令」と「飛鳥浄御原令」も使えます。

まとめ

  • 近江令:天智天皇の時代の668年に藤原鎌足らが定めたと伝わる令22巻。律はなく条文も残らない。『日本書紀』に制定記事がなく、同一説や否定説がある。
  • 飛鳥浄御原令:681年に天武天皇が編纂を命じ、689年に持統天皇のもとで頒布された令22巻。律は作られなかったとする説が有力。
  • 大宝律令:701年完成。文武天皇のもと刑部親王・藤原不比等らが編纂した律6巻・令11巻。律と令がそろった最初の法典。原文は散逸。
  • 養老律令:718年に不比等らが編纂したとされ(完成時期には異説)、757年に藤原仲麻呂の主導で施行された律10巻・令10巻。令は『令義解』『令集解』でほぼ復元できる。

近江令だけは「伝わっている法典」であり、存在そのものが論点になる。この一点が、ほかの3つとの最大の違いです。

参考資料

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よくある質問

5件
近江令とは何ですか?
天智天皇の時代に、近江大津宮の朝廷で定められたと伝わる令(行政法にあたる法典)です。668年(天智7年)に藤原鎌足らが22巻を編纂したとされますが、律は伴わず、条文も現存しません。『日本書紀』に制定の明記がなく、確実な史料がないため、存在を否定する説もあります。
近江令・飛鳥浄御原令・大宝律令・養老律令の順番と違いは?
近江令(668年とされる・天智天皇)→飛鳥浄御原令(681年に編纂命令、689年施行・天武天皇と持統天皇)→大宝律令(701年完成・文武天皇、刑部親王・藤原不比等ら)→養老律令(718年に編纂とされ、757年施行)の順です。前の二つは令だけで条文が残らず、律と令がそろった最初の法典が大宝律令、令の大部分が注釈書を通じて伝わるのが養老律令です。
近江令は本当に存在したのですか?
学説が分かれています。天智朝に令22巻が編纂・施行されたとする説のほか、飛鳥浄御原令と同じものとする説、体系的な法典としての近江令は存在しなかったとする説があります。改訂新版世界大百科事典は、法典としての近江令は存在しなかったとする新説が有力になりつつあると説明しています。
大宝律令と養老律令の違いは何ですか?
大宝律令は701年に完成した律6巻・令11巻、養老律令は藤原不比等らが718年に編纂したとされ(完成時期には異説あり)、757年に藤原仲麻呂の主導で施行された律10巻・令10巻です。内容の差は字句の修正など小幅とされます。大宝律令は原文が散逸し、養老令は『令義解』『令集解』からほぼ復元できる点が大きく異なります。
律と令の違いは何ですか?
律は刑罰を定めた法(刑法)、令は役所の組織や税、戸籍などの統治のしくみを定めた法(行政法を中心とする法)です。日本では令の整備が先に進み、律と令が初めてそろって編纂されたのが大宝律令とされます。
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