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北山文化と東山文化の違い|足利義満と足利義政、金閣と銀閣を比較表で

執筆・編集 RandaWorks 更新 2026年10月5日 21分で読める
#日本史#室町時代#文化史#用語#受験

北山文化と東山文化の違い——「義満の金閣」と「義政の銀閣」

北山文化は、3代将軍足利義満のころを中心とする室町前期の文化で、義満が京都の北山に営んだ北山殿の金閣(鹿苑寺)が象徴です。東山文化は、8代将軍足利義政のころを中心とする室町中期(15世紀後半)の文化で、義政が京都の東山に営んだ山荘の**銀閣(慈照寺)**が象徴です。北山文化では公家文化と武家文化が融け合い、禅宗や中国文化の影響も受けて、能・五山文学・水墨画が発達しました。東山文化は簡素さを重んじ、書院造・侘茶・立花・枯山水など、今の伝統文化につながるものを育てました。

まず全体を一枚の表で比べ、そのあとで年代、建物、分野ごとの人物と作品を順に確かめます。

比べる点北山文化東山文化
中心人物足利義満(3代将軍)足利義政(8代将軍)
時期室町前期(14世紀末〜15世紀前半)室町中期(15世紀後半)
象徴する建物金閣(鹿苑寺の舎利殿)銀閣(慈照寺の観音殿)、東求堂同仁斎
性格公家文化と武家文化の融合、禅宗の影響、唐物への関心簡素さ、生活に根ざした文化、わび・さび
芸能観阿弥・世阿弥が能を大成音阿弥、金春禅竹
文学五山文学(義堂周信・絶海中津)、連歌の流行連歌(宗祇、心敬)、古典研究(一条兼良)
絵画水墨画(明兆・如拙・周文)水墨画(雪舟)、狩野派(狩野正信)、大和絵(土佐光信)
住まいと庭寝殿造と禅宗様を合わせた金閣書院造、枯山水
茶と花闘茶、会所の立花、書院の茶の湯侘茶(村田珠光)、立花(池坊専慶)

表の語句は、主にコトバンクに収録された辞典の「北山文化」「東山文化」の項目で、それぞれの文化の人物・特色として挙げられているものです。池坊専慶のように、人物の項目で年代を確かめて加えたものもあります。用語を一問一答で確認するなら、北山文化と東山文化のページが対応しています。

名前の由来と、時期の幅

デジタル大辞泉は、北山文化の名を、義満が京都北山に営んだ山荘にちなむと説明しています。東山文化についても、精選版 日本国語大辞典が義政の東山山荘にちなんだ名称だとしています。改訂新版 世界大百科事典によると、1428年(正長元年)の書状にすでに「北山の時分」という言い方が見え、義満の時代を北山で表すのは早くからのことでした。

どこまでを含めるかは、辞典によって少し幅があります。

  • 北山文化:デジタル大辞泉は義満のころの文化とし、日本大百科全書(ニッポニカ)は義満の晩年から4代義持の時代にかけて、精選版 日本国語大辞典は義満・義持の時代としています。改訂新版 世界大百科事典は、6代義教の時代まで含めてよいとしています。日本大百科全書は、義満の影響が没後にも及んだとして、応永から永享の時期(1394〜1441年)の文化の発展を挙げています。
  • 東山文化:改訂新版 世界大百科事典は15世紀後半の文化とし、日本大百科全書や山川 日本史小辞典は室町中期の文化と位置づけています。

「義満ひとりの時代」「義政ひとりの時代」とぴったり区切るより、その将軍を中心とした前後の時代の文化と考えるほうが、辞典の説明に合います。

年代と人物——足利義満と足利義政

足利義満(1358〜1408年)

義満は1368年(応安元年)に将軍となり、1394年(応永元年)に将軍職を子の義持に譲って太政大臣となりました(日本大百科全書)。在職年は辞典によって「1368〜94年」と「1369〜95年」の二通りの書き方があります。将軍在職中の1392年には南北朝の合一を実現しました。将軍職を譲ったあとの1401年には明との国交を開き、勘合貿易へつなげています。

鹿苑寺が属する臨済宗相国寺派の公式サイト(以下、相国寺の公式サイト)によると、義満は西園寺家の北山第を譲り受け、**1397年(応永4年)**に北山殿の造営を始めました。1408年(応永15年)には後小松天皇を北山殿に迎え、その年に亡くなります。北山殿は義満の遺言で禅寺となり、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名づけられました。

義満が北山殿を営んだのは、将軍職を譲ったあとです。ただし日本大百科全書は、将軍職を譲ったあとも実権は義満が握ったままで、義満は北山殿で政務をとったとしています。人物から流れを追うなら、足利義満の人物ページや一問一答の足利義満も参考になります。

足利義政(1436〜1490年)

義政は1449年(宝徳元年)に15歳で将軍となり、1473年(文明5年)に将軍職を子の義尚に譲りました(改訂新版 世界大百科事典)。日本大百科全書の「東山文化」の項は、在位を1443〜73年と書いています。1443年は、兄の義勝が亡くなって義政が後継ぎとなった年です。

1464年に弟の義視を後継ぎと定めた翌年、妻の日野富子が義尚を産み、後継ぎをめぐる争いが起こります。これが細川勝元と山名持豊(宗全)の対立と結びつき、1467年(応仁元年)に応仁の乱が始まりました。京都での戦いは1477年(文明9年)まで続きます。→ 応仁の乱

相国寺の公式サイトによると、義政は乱のあとの**1482年(文明14年)**に東山山荘の造営に着手し、翌年に常御所ができると山荘に移りました。1485年に出家し、1486年に持仏堂の東求堂ができ、1489年(長享3年)3月に観音殿(銀閣)の立柱上棟が行われます。義政はその完成を見ないまま、翌年の1月7日に亡くなりました。山荘は義政の死後に禅寺となり、法号の「慈照院」にちなんで慈照寺と名づけられました。

人物については足利義政の人物ページにもまとめています。

  1. 1368
    義満が3代将軍になる
    在職年を1369〜95年とする辞典もある
  2. 1392
    南北朝の合一
    義満のもとで実現
  3. 1394
    義満が将軍職を義持に譲る
    太政大臣となり、翌年出家
  4. 1397
    北山殿の造営開始
    西園寺家の北山第を譲り受ける
  5. 1401
    明との国交を開く
    勘合貿易へ
  6. 1408
    義満が亡くなる
    北山殿は遺言で禅寺(鹿苑寺)に
  7. 1449
    義政が8代将軍になる
  8. 1467
    応仁の乱が始まる
    京都での戦いは1477年まで
  9. 1473
    義政が将軍職を義尚に譲る
  10. 1482
    東山山荘の造営開始
    翌年、義政が移り住む
  11. 1486
    東求堂ができる
    同仁斎を備えた義政の持仏堂
  12. 1489
    観音殿(銀閣)の立柱上棟
  13. 1490
    義政が亡くなる
    山荘は禅寺(慈照寺)に
北山文化と東山文化の主な出来事(相国寺公式サイト、コトバンク収録の辞典より整理)

背景——なぜ文化の性格が違うのか

北山文化:幕府の最盛期に、公家・武家・禅宗が融け合う

日本大百科全書は、北山文化の特徴を、伝統的な公家文化と新興の武家文化の融合、そして禅宗の深い影響や庶民文化の洗練にあるとしています。改訂新版 世界大百科事典は、その前提として、幕府が京都に置かれて多くの地方武士が京都に集まり、公家の伝統文化に触れたことを挙げています。

もう一つの柱が中国文化です。改訂新版 世界大百科事典によると、義満が始めた日明貿易で多くの唐物・唐絵がもたらされ、それらを飾る場所として書院・押板床・違い棚が造りつけになり、床の間が生まれました。日本大百科全書は、金閣に付随した会所で連歌や闘茶の会が開かれ、唐物が並べられ、立花(いけばな)が飾られたと説明しています。

東山文化:戦乱の時代に、暮らしの中へ広がる

東山文化について、日本大百科全書は、公家文化・武家文化・禅宗文化に、この時代に目立ってきた庶民文化が加わって交流したものだとし、特質として禅宗思想の影響と、生活文化としての要素の二つを挙げています。義政のまわりには、禅僧・公家・守護大名のほか、阿弥号をもつ同朋衆や、庭づくりにすぐれた山水河原者など、さまざまな身分の人々が集まりました。

山川 日本史小辞典は、東山文化を簡素さを旨とし、書院造の住宅、侘茶の誕生、立花の様式化など、現在の伝統的な日本文化の源流をはぐくんだものと位置づけています。旺文社日本史事典は「わび」「さび」を最大の特色としたうえで、御伽草子や狂言など庶民の生活に材をとるものも多く、近世の町人文化の源流になったとしています。

広がり方にも特徴があります。旺文社日本史事典は、戦乱を避けて地方に下る貴族や僧によって、文化が山口や大分などの地方に及んだと説明しています。改訂新版 世界大百科事典は、地方での暮らしのなかで画業を完成させた人物として雪舟を挙げています。

室町幕府の政治の側は、守護の力が強まる流れを扱った半済令とはや地頭請と守護請の違いで確認できます。

金閣と銀閣を比べる

金閣(北山文化)
銀閣(東山文化)
寺の名前
金閣(北山文化)鹿苑寺。臨済宗相国寺派で、相国寺の山外塔頭
銀閣(東山文化)慈照寺。臨済宗相国寺派で、相国寺の山外塔頭
建物の正式名
金閣(北山文化)舎利殿
銀閣(東山文化)観音殿
もとの山荘
金閣(北山文化)義満の北山殿(1397年に造営開始)
銀閣(東山文化)義政の東山山荘(1482年に造営開始)
層の数
金閣(北山文化)三層
銀閣(東山文化)二層
下の層
金閣(北山文化)寝殿造の住宅風
銀閣(東山文化)書院造の住宅風(心空殿)
最上層
金閣(北山文化)禅宗様の仏堂風(究竟頂)
銀閣(東山文化)禅宗様の仏堂風(潮音閣)
箔
金閣(北山文化)二層・三層に金箔
銀閣(東山文化)銀箔を貼った形跡はない
その後
金閣(北山文化)1950年に放火で焼失し、1955年に再建
銀閣(東山文化)銀閣と東求堂が国宝
金閣と銀閣の比較(改訂新版 世界大百科事典「鹿苑寺」「慈照寺」、相国寺公式サイトより整理)

二つの建物には共通点もあります。改訂新版 世界大百科事典は、住宅の上に仏堂を重ねる構成は金閣に先例があり、下の層が寝殿造風の金閣と書院造風の銀閣とでは、それぞれが造られた時代の住宅形式が表れていると説明しています。金閣と銀閣の違いは、平安時代以来の貴族住宅である寝殿造から、武家の住宅である書院造へという、住まいの移り変わりを映しているわけです。寝殿造が生まれた時代については平安時代の重要語句まとめで扱っています。

どちらの寺も、1994年に「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産に登録されました(日本大百科全書)。建物を一問一答で確認するなら、鹿苑寺金閣と慈照寺銀閣のページがあります。

辞典で説明が分かれる点

金閣と銀閣は、資料によって年代や様式の書き方が少しずつ違います。暗記した年号と問題文が合わないときに慌てないよう、並べておきます。

論点説明の違い
北山殿の造営相国寺の公式サイトと改訂新版 世界大百科事典「鹿苑寺」は1397年に造営開始、旺文社日本史事典も1397年の造営とする。改訂新版 世界大百科事典「北山文化」は1398年に営んだとする
義満が北山殿へ移った年改訂新版 世界大百科事典「鹿苑寺」と精選版 日本国語大辞典「足利義満」は1398年。山川 日本史小辞典は「北山殿」の項で1397年、「足利義満」の項で1399年とする
金閣の各層の様式改訂新版 世界大百科事典と旺文社日本史事典は一・二層を寝殿造、三層を禅宗様とする。日本大百科全書は初層を寝殿造、中層を武家造、上層を仏殿造とする
東山山荘の造営開始相国寺の公式サイトや山川 日本史小辞典は1482年。日本大百科全書「慈照寺」は1465年に造営を始め、1483年に移り住んだとする
銀閣の完成相国寺の公式サイトと改訂新版 世界大百科事典は1489年に上棟。旺文社日本史事典とブリタニカ国際大百科事典は1489年の完成、日本大百科全書「慈照寺」は義政没後の1490年の落成とする

試験対策としては、**金閣は「1397年・寝殿造と禅宗様」、銀閣は「1482年に造営開始・1489年に上棟」**を軸にし、ほかの数字が出てきたら説明の違いだと判断できれば十分です。

銀閣と、東求堂同仁斎

銀閣と同じ境内にある東求堂は、1486年(文明18年)にできた義政の持仏堂です(デジタル大辞泉)。その北東の一室が同仁斎で、四畳半に付書院と違い棚を備えています。改訂新版 世界大百科事典は初期書院造の典型とし、デジタル大辞泉の「書院造」の項は、ほぼ形式が整った現存最古の例としています。

同仁斎は「四畳半茶室の始まり」とも言われてきました。ただし日本大百科全書の「同仁斎」は、茶の道具を置いた棚や炉はあったものの、主人と客が同座する茶室と同じに見るのは適当でないとしています。ブリタニカ国際大百科事典も、義政自身はこの部屋を書斎と考えていたと説明しています。

分野別に見る——代表人物と作品

能——北山文化で大成

観阿弥(1333〜1384年)と世阿弥(1363?〜1443年?)の父子は、1374年か翌1375年に京都の今熊野で猿楽能を催しました。これを見た足利義満が、以後二人を強く後援します(改訂新版 世界大百科事典「観阿弥」)。日本大百科全書は、庶民芸能の一つだった猿楽が、義満や二条良基らの保護を受けた世阿弥によって能楽へ大成されたと説明しています。

世阿弥の能楽論『風姿花伝』は全7編で、1400年(応永7年)に第3編までがまとめられ、第7編ができるまでには20年近くかかりました(改訂新版 世界大百科事典)。→ 風姿花伝

東山文化の時期の能役者としては、改訂新版 世界大百科事典が猿楽の音阿弥を、旺文社日本史事典が金春禅竹を挙げています。

五山文学と連歌

五山文学は、京都・鎌倉の五山を中心に、禅僧の間で行われた漢詩文です。日本大百科全書は、最も盛んだったのは南北朝時代から室町時代の前期にかけてで、義堂周信(1325〜1388年、詩文集『空華集』)と絶海中津(1336〜1405年、『蕉堅稿(蕉堅藁)』)が隆盛期の双璧と呼ばれるとしています。

連歌は北山文化の時期から流行し(精選版 日本国語大辞典)、東山文化の時期には宗祇(1421〜1502年)が出ました。宗祇らが選んだ連歌集『新撰菟玖波集』は1495年(明応4年)に成立しています(デジタル大辞泉)。義政が亡くなったあとの成立ですが、辞典は宗祇を東山文化の人物として挙げています。

水墨画——如拙・周文から雪舟へ

北山文化の水墨画では、ブリタニカ国際大百科事典が明兆・如拙を、山川 日本史小辞典が如拙・周文を挙げています。如拙の『瓢鮎図(ひょうねんず)』は、4代将軍義持の命で、ひょうたんでナマズを押さえるという禅の公案を描いたものです。1415年(応永22年)以前の作で、京都の妙心寺退蔵院にあり、国宝に指定されています(デジタル大辞泉)。周文は相国寺の僧で、如拙のあとを継いで幕府の御用絵師となりました(改訂新版 世界大百科事典)。

東山文化の水墨画を代表するのが雪舟(1420〜1506年ごろ)です。日本大百科全書によると、雪舟は京都の相国寺で禅の修行を積みながら周文に絵を学んだと考えられ、のちに周防の山口で大内氏の庇護を受けました。1467年(応仁元年)に遣明船で明に渡り、1469年に帰国しています。代表作に『四季山水図(山水長巻)』『天橋立図』『秋冬山水図』などがあり、『秋冬山水図』は東京国立博物館が所蔵する国宝です(e国宝)。山川 日本史小辞典は、東山文化の特徴の一つに雪舟による水墨画の大成を挙げています。→ 水墨画(雪舟)

同じころ、狩野正信(1434〜1530年ごろ)が幕府の御用絵師として活動しました。百科事典マイペディアによると、1483年には義政の東山山荘の襖絵を制作しています。代表作は『周茂叔愛蓮図』で、正信は狩野派の祖とされます。

書院造と枯山水——東山文化の住まいと庭

書院造は、デジタル大辞泉によると、室町時代に始まり桃山時代に完成した武家住宅の様式で、座敷に床の間・違い棚・付書院などを備えます。山川 日本史小辞典は、古代の寝殿造から発展したものの、角柱を使い、用途に応じた小さな部屋をいくつも造る点で寝殿造と異なるとしています。東山文化の時期は、その始まりの段階にあたります。

枯山水は、池や流水を用いず、石と砂で山水の風景を表す庭園の形式です(デジタル大辞泉)。改訂新版 世界大百科事典によると、石を立てる庭そのものは平安時代の『作庭記』にも見えますが、室町時代に入って、禅の考え方と中国の山水画に触発され、禅宗寺院の狭い庭に新しい枯山水が現れました。例として、15個の石を配した竜安寺の庭や、大徳寺大仙院の庭が挙げられます。

東山山荘は、相国寺の公式サイトによると、義政が好んだ西芳寺(苔寺)を手本に造られたといわれます。慈照寺の庭について、改訂新版 世界大百科事典は、作庭に善阿弥の一族が参加したと推定しています。

茶の湯と立花——侘茶と、いけばなのはじまり

茶について、北山文化の時期には闘茶が盛んでした。改訂新版 世界大百科事典は、唐物で飾った書院座敷で行う書院の茶の湯(殿中茶の湯)が、義持から義教の時代にかけて様式として確立したとしています。

東山文化の時期に現れたのが村田珠光(1423〜1502年)です。デジタル大辞泉は侘茶を創始した茶道の開祖とし、改訂新版 世界大百科事典の「東山文化」は、書院の茶の湯を簡略にして枯淡の美を説いたと説明しています。なお、珠光が義政に仕えたという伝えについて、日本大百科全書は事実とは考えがたいとし、百科事典マイペディアも不詳としています。

立花(いけばな)では、京都の六角堂(頂法寺)の僧・池坊専慶が知られます。日本大百科全書によると、『碧山日録』の1462年(寛正3年)2月の条に、専慶が金瓶に数十枝の草花を立てたところ、京都の愛好家がこぞって見物したと記されています。専慶は池坊のいけばなの始祖とされます。改訂新版 世界大百科事典の「東山文化」は、六角堂の池坊専応が現れ、以後は池坊がこの分野を導いたとしています。

同朋衆——将軍のそばで文化を支えた人々

東山文化の担い手として欠かせないのが同朋衆です。日本大百科全書の「東山文化」は、阿弥号をもち、多くは出身地や家柄がわからないまま、特定の技芸にすぐれた才能を認められて抜擢され、義政のそば近くに仕えた人々と説明しています。

改訂新版 世界大百科事典によると、唐物を扱う同朋衆は将軍家の唐物の収集を担い、目利き・保管・表装・座敷飾りにあたりました。能阿弥(1397〜1471年)・芸阿弥・相阿弥の3代は「三阿弥」と呼ばれ、座敷飾りの決まりをまとめた『君台観左右帳記』は、能阿弥が著したと伝えられます。

混同しやすい点

二つの文化は「対」で出題されるので、入れ替えの誤りが定番です。検証した事実から、取り違えやすいところをまとめます。

  • 世阿弥は北山、雪舟は東山:能の大成は北山文化、水墨画の大成は東山文化の時期です。
  • 如拙・周文は北山、雪舟は東山:水墨画はどちらの文化にも出てきます。辞典が師弟と伝える如拙 → 周文 → 雪舟の順で覚えると、時期も並びます。
  • 同仁斎は東求堂の中:銀閣(観音殿)の中ではありません。
  • 金閣は「舎利殿」、銀閣は「観音殿」:正式名を入れ替えた選択肢に注意します。
  • どちらの山荘も、将軍職を譲ったあとに造り始めた:広く使われている年代(1397年・1482年)に従えば、義満は1394年に将軍職を譲ったあとで北山殿を、義政は1473年に譲ったあとで東山山荘を造り始めています。
  • 東山山荘の造営は応仁の乱のあと:乱が始まったのは義政が将軍だった1467年、山荘の造営は京都での戦いが収まったあとの1482年です。

前後の因果——将軍権力の盛衰と、文化の性格の変化

二つの文化の違いは、室町幕府の力の変化と重ねると整理しやすくなります。

南北朝の動乱 → 1392年に義満が南北朝を合一 → 明と国交を開き、日明貿易で唐物が入る → 北山殿に公家・武家・禅宗の文化が集まる(北山文化) → 義持・義教の時代に書院の茶の湯などが形を整える → 1467年から応仁の乱、幕府の権威が揺らぐ → 義政が東山山荘を営む(1482年〜) → 公家・武家・禅宗・庶民の文化が交流し、簡素な美意識が深まる(東山文化) → 戦乱を避けた公家や僧、連歌師によって地方へ広がる → 現在の伝統文化の源流になる

ただし、これは整理のための見取り図です。唐物への関心や同朋衆の活動は北山文化から東山文化へ続いており、二つの文化はきっぱり切れているわけではありません。

確認問題

第1問

京都の北山で北山殿の造営を始めた人物は誰で、それは西暦何年でしょうか。

答え:足利義満、1397年(応永4年)です。 北山殿は義満の死後に禅寺となり、鹿苑寺と名づけられました。金閣はその舎利殿です。

第2問

慈照寺の東求堂にある、四畳半に付書院と違い棚を備えた部屋の名前は何でしょうか。

答え:同仁斎です。 初期書院造の代表例とされます。銀閣(観音殿)の中ではなく、東求堂にある点に注意してください。

第3問

次のうち、東山文化の人物として挙げられないのは誰でしょうか。

  • ア:雪舟
  • イ:村田珠光
  • ウ:世阿弥
  • エ:宗祇

答え:ウの世阿弥です。 世阿弥は父の観阿弥とともに義満の後援を受け、能を大成した北山文化の人物です。

第4問

次の文は正しいですか、誤っていますか。 「足利義政の東山山荘に建てられた銀閣には、金閣にならって銀箔が貼られ、その中に同仁斎という部屋がある。」

答え:誤りです。 銀閣に銀箔を貼った形跡はないとされています。同仁斎があるのは銀閣(観音殿)ではなく、同じ境内の東求堂です。

さらに演習するなら、室町時代の一問一答と、原因と結果のつながりを問う室町時代の因果クイズが使えます。因果クイズには「北山・東山文化」の問題もあります。

まとめ

  • 北山文化は、3代将軍足利義満のころを中心とする室町前期の文化。北山殿の金閣(鹿苑寺)が象徴で、公家文化と武家文化が融け合い、禅宗と中国文化の影響を受けた。
  • 東山文化は、8代将軍足利義政のころを中心とする室町中期(15世紀後半)の文化。東山山荘の銀閣(慈照寺)が象徴で、簡素さを重んじ、生活に根ざした文化として広がった。
  • 金閣は1397年に北山殿の造営開始。銀閣は1482年に東山山荘の造営開始、1489年に上棟。移った年や完成年は辞典で書き方が違う。
  • 北山文化の代表は、観阿弥・世阿弥の能、義堂周信・絶海中津の五山文学、如拙・周文の水墨画。
  • 東山文化の代表は、東求堂同仁斎の書院造、枯山水、雪舟の水墨画、村田珠光の侘茶、池坊専慶の立花、同朋衆。
  • 銀閣に銀箔を貼った形跡はなく、同仁斎があるのは銀閣ではなく東求堂。

「金閣=義満=北山」「銀閣=義政=東山」の対応を土台に、応仁の乱の前か後かという時代の違いを重ねて覚えるのがおすすめです。

参考資料

関連記事

よくある質問

5件
北山文化と東山文化の違いは何ですか?
北山文化は3代将軍足利義満のころを中心とする室町前期の文化で、北山殿の金閣(鹿苑寺)が象徴です。公家文化と武家文化が融け合い、禅宗の影響も受けて、能や五山文学、水墨画が発達しました。東山文化は8代将軍足利義政のころを中心とする室町中期(15世紀後半)の文化で、東山山荘の銀閣(慈照寺)が象徴です。簡素さを重んじ、書院造・侘茶・立花・枯山水など、今の伝統文化につながるものが育ちました。
足利義満と足利義政の違いは何ですか?
義満(1358〜1408年)は室町幕府の3代将軍で、1392年に南北朝の合一を実現し、明との国交と勘合貿易を開いて幕府の最盛期を築きました。義政(1436〜1490年)は8代将軍で、在職中の1467年に応仁の乱が始まり、1473年に将軍職を子の義尚に譲りました。文化史では「義満=北山殿・金閣」「義政=東山山荘・銀閣」と対応させて覚えます。
金閣と銀閣はいつ建てられましたか?
金閣は、義満が1397年(応永4年)に造営を始めた北山殿の舎利殿です。銀閣は、義政が1482年(文明14年)に造営を始めた東山山荘の観音殿で、1489年(長享3年)に立柱上棟が行われ、義政は翌年1月に完成を見ないまま亡くなりました。北山殿へ移った年や銀閣の完成年は辞典によって書き方が違うため、記事内で並べて示しています。
銀閣には銀箔が貼られているのですか?
貼られていません。改訂新版 世界大百科事典は、金閣にならって銀箔をはったとされるがその形跡はないとしています。ブリタニカ国際大百科事典は、銀箔を押す計画だったが義政の死で実現しなかったと説明しています。銀閣寺という呼び名は、相国寺派の公式サイトによると、江戸時代に金閣寺に対して使われるようになったといわれます。
書院造と枯山水はどちらの文化ですか?
どちらも東山文化の特色として挙げられます。慈照寺の東求堂(1486年)にある四畳半の同仁斎は、付書院と違い棚を備え、初期書院造の代表例とされます。枯山水は水を使わず石と砂で山水を表す庭で、竜安寺や大徳寺大仙院の庭が例に挙がります。ただし竜安寺の石庭は、作られた年代が室町説と江戸説に分かれ、作者もわかっていません。
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