平安時代の重要語句を、5つのまとまりで一覧にします
平安時代は、794年(延暦13年)の平安京遷都から、12世紀末に鎌倉幕府ができるまでの約400年間です。長いぶん語句も多いので、この記事では平安初期・摂関政治・地方と土地・院政と武士・文化の5つに分けて、重要語句の意味と年代を整理します。精選版 日本国語大辞典は、平安時代をふつう「律令制を再興した初期」「藤原氏が栄えた中期」「上皇が院で政治を行った後期」に分けるとしており、この記事の区分もそれに沿っています。
| まとまり | 時期の目安 | 政治の中心 | 重要語句 |
|---|---|---|---|
| 平安初期 | 8世紀末〜9世紀前半 | 天皇(桓武・嵯峨) | 長岡京、平安京、坂上田村麻呂、勘解由使、蔵人所、検非違使、薬子の変 |
| 摂関政治 | 9世紀後半〜11世紀半ば | 藤原北家 | 外戚、入内、摂政、関白、承和の変、応天門の変、安和の変、内覧、藤原道長、藤原頼通 |
| 地方と土地 | 10〜11世紀 | 受領、地方の武士 | 荘園、延喜の荘園整理令、延喜・天暦の治、受領、承平・天慶の乱、寄進地系荘園、不輸不入、前九年の役、後三年の役 |
| 院政と武士 | 11世紀後半〜12世紀 | 上皇、のち平氏 | 後三条天皇、延久の荘園整理令、院政、院近臣、北面の武士、保元の乱、平治の乱、平清盛、日宋貿易、治承・寿永の乱、壇ノ浦の戦い |
| 文化 | 全期 | — | 弘仁・貞観文化、最澄、空海、遣唐使の停止、国風文化、古今和歌集、源氏物語、枕草子、末法思想、浄土教、平等院鳳凰堂、中尊寺金色堂、今昔物語集、梁塵秘抄、鳥獣戯画 |
各語句には、平安時代の一問一答の用語ページへのリンクを付けてあります。
平安初期——遷都と律令の立て直し
長岡京と平安京
桓武天皇は784年(延暦3年)に平城京から長岡京へ都を移し、794年(延暦13年)10月に平安京へ移りました。同じ年の11月の詔で、新しい都は平安京と名づけられます(精選版 日本国語大辞典)。平安京は、1869年(明治2年)に都が東京へ移るまで都でした。→ 平安京遷都
長岡京では、785年に造営の責任者だった藤原種継が暗殺され、桓武天皇の弟の早良親王が関係を疑われて皇太子を廃されました。日本大百科全書は、洪水や政争が続き、早良親王の怨霊に悩まされた桓武天皇によって、わずか10年で都が移されたと説明しています。
順序は**平城京(奈良)→ 長岡京(784年)→ 平安京(794年)**です。
桓武天皇と坂上田村麻呂
桓武天皇(在位781〜806年)について、改訂新版 世界大百科事典は、在位中の最大の事業を、平城京からの遷都と蝦夷の征討だったとしています。その征討を担ったのが坂上田村麻呂で、797年に征夷大将軍に任じられ、802年には胆沢城を築きました。→ 坂上田村麻呂
ただし同書は、都づくりと征討にかかった巨額の費用が財政を圧迫し、人々の暮らしを苦しめたとも指摘しています。
令外官——勘解由使・蔵人所・検非違使
律令の職員令に規定されていない官職や役所を、令外官(りょうげのかん)と呼びます(改訂新版 世界大百科事典)。平安初期の代表が次の三つです。
| 官職 | 置かれた時期 | おもな仕事 |
|---|---|---|
| 勘解由使 | 桓武天皇の時代(797年に長官任命の記録) | 国司などが交代するとき、引き継ぎを証明する書類(解由状)を審査する |
| 蔵人所 | 810年(嵯峨天皇) | 天皇のそばで機密の文書などを扱う |
| 検非違使 | 平安初期 | 京都の犯罪や風俗の取り締まり。のちに訴訟・裁判も扱う |
蔵人所ができた810年は、嵯峨天皇と兄の平城上皇の対立から薬子の変が起きた年です。改訂新版 世界大百科事典は、蔵人所の成立の事情として、この対立を挙げています。薬子の変では、上皇に重んじられていた藤原薬子が自殺し、兄の仲成は殺され、上皇は出家しました。
→ 検非違使。令外官どうしの違いは検非違使とはで比べています。
摂関政治——藤原氏はなぜ娘を入内させ続けたのか
外戚(がいせき)
母方の親族のことです。山川 日本史小辞典は、古代には結婚した男子が妻の実家の支援を受け、生まれた子は母の家で育てられたと説明しています。天皇も、有力な外戚の後ろ盾がなければ即位を期待できませんでした。
旺文社日本史事典は、天皇の外戚は皇子が母方で養育されることから政治的に力を得ることが多く、藤原氏はこの地位を利用して摂政・関白になったとしています。外祖父との違いや、藤原氏以外の例は外戚とはで詳しく扱っています。
入内(じゅだい)
皇后・中宮・女御になる人が、儀礼を整えて正式に内裏に入ることです(デジタル大辞泉)。→ 入内
外戚になる道すじは、次の順になります。
- 娘を入内させる
- その娘が皇子を産む
- その皇子が天皇になる
- 自分は天皇の外祖父になる
- 摂政・関白として政治を主導する
摂政と関白
関白の始まりには二つの数え方があります。改訂新版 世界大百科事典によると、関白という語が見える最初は887年(仁和3年)の宇多天皇の詔ですが、884年(元慶8年)に光孝天皇が基経に下した勅に同じ中身の言葉があることから、こちらを起源とする説もあります。
摂関政治が固まるまで
摂関政治は、藤原氏が天皇の外戚となって摂政・関白を独占し、政治の実権を握った政治の形です(デジタル大辞泉)。→ 摂関政治
一気に完成したわけではありません。辞典の記述を年代順に並べると、藤原北家がほかの氏族を退けながら、少しずつ地位を固めていったことがわかります。
| 年 | 出来事 | 意味 |
|---|---|---|
| 842年 | 承和の変 | 藤原良房の妹が産んだ皇子が皇太子になる |
| 858年 | 清和天皇が9歳で即位 | 外祖父の良房が、太政大臣として実質的に摂政の役割を果たす |
| 866年 | 応天門の変 | 良房が摂政の詔を受ける(臣下で最初の摂政) |
| 884〜887年 | 藤原基経が関白に | 光孝天皇・宇多天皇のもとで政務を任される |
| 901年 | 菅原道真の左遷 | 右大臣の道真が大宰府へ移される |
| 969年 | 安和の変 | 左大臣の源高明が左遷される。藤原氏による他氏排斥の事件とされる |
日本大百科全書は、摂関政治を、とくに967年(康保4年)に藤原実頼が関白になってから、1068年(治暦4年)に後三条天皇が即位するまでの約100年間の政治の形を指す言葉だとしています。基経が亡くなったあとの約40年など、摂政・関白が置かれない時期もあり、それまではまだ定着していませんでした。
藤原道長と藤原頼通
藤原道長(966〜1027年)は、摂関政治の全盛期を築いた人物です。→ 藤原道長 / 人物ページ
- 995年:兄たちが相次いで亡くなり、関白に準じる内覧となる
- 999年〜:娘の彰子を一条天皇の后とし、さらに妍子を三条天皇、威子を後一条天皇の后とする
- 1016年:彰子が産んだ後一条天皇が即位し、外祖父として摂政となる
- 1017年:摂政を子の頼通に譲り、太政大臣となる
- 1018年:威子が后に立ち、三人の娘が同時に后の位に並ぶ。「この世をば我が世とぞ思ふ」の望月の歌は、この年に詠まれた
内覧とは、天皇に差し上げる文書を前もって見て処置する役目です(デジタル大辞泉)。
子の藤原頼通(992〜1074年)は、後一条・後朱雀・後冷泉の3代にわたって摂政・関白を務めました。しかし頼通の娘には皇子が生まれず、1068年に藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位して、摂関家の力は後退していきます(日本大百科全書「摂関政治」)。
地方と土地——律令の仕組みが変わっていく
荘園と延喜の荘園整理令
荘園は、奈良時代から戦国時代にかけて存在した、中央の貴族や寺社による私的な大土地所有の形です(デジタル大辞泉)。出発点になった奈良時代の土地法は、三世一身法と墾田永年私財法の違いで扱っています。→ 荘園制の発達
延喜の荘園整理令は、902年(延喜2年)に醍醐天皇のもとで出された、最初の荘園整理令です。山川 日本史小辞典によると、勅旨田を停止し、皇族や五位以上の貴族が百姓の田地や家を買い取ったり、空き地や荒れた田を占有したりすることを禁じる内容でした。→ 延喜の荘園整理令
荘園整理令は、このあとも何度も出されます。デジタル大辞泉は、十分な効果は上がらなかったとしています。
延喜・天暦の治
醍醐天皇(在位897〜930年)と村上天皇(在位946〜967年)の治世を、後の時代に理想の政治としてたたえた呼び方です。延喜は醍醐天皇、天暦は村上天皇のときの年号で、どちらの時代もほぼ摂政・関白を置かず、天皇が自ら政治を行う形をとりました(日本大百科全書)。→ 延喜・天暦の治
ただし、これは後からの評価です。改訂新版 世界大百科事典は、醍醐天皇の時代の事業について努力は認められるが実績には限界があったとし、村上天皇の時代についても、律令的な政治の仕組みは一段と行き詰まり、関白は置かれなかったものの外戚政治の色合いは強かったとしています。二つの治世にはさまれた朱雀天皇の時代には、次に見る承平・天慶の乱も起きています。
受領(ずりょう)
平安時代の国司のうち、実際に任国へ赴任した者の中の最高責任者を指します。改訂新版 世界大百科事典によると、10世紀の初めには、受領は税の取り立てだけでなく国の役所の財産の管理や裁判まで握り、国の政務を一手に担うようになりました。→ 受領
力が集まれば、厳しい取り立ても起こります。同書は、農民から非法を訴えられた藤原元命の例(『尾張国郡司百姓等解文』)を挙げています。百科事典マイペディアは、任期が終わったあとも任地に住みついて勢力を伸ばし、武士団の頭に成長する者もあったとしています。
承平・天慶の乱
10世紀の前半、東国の平将門と西国の藤原純友が、ほぼ同じ時期に起こした反乱をまとめた呼び方です。→ 平将門の乱 / 承平天慶の乱
- 平将門の乱:一族の争いから始まり、939年(天慶2年)に常陸の国府を襲って朝廷への反乱となった。将門は関東の国々を押さえて「新皇」と名のったが、940年に藤原秀郷と平貞盛に討たれた。
- 藤原純友の乱:伊予の役人だった純友が瀬戸内海で反乱を起こし、941年には大宰府を焼いたが、同じ年に敗れて死んだ。
将門を討ったのは、朝廷が送った将軍が着く前に動いた、東国の豪族たちでした。デジタル大辞泉は、この乱を、律令国家の崩壊と地方武士の台頭を象徴する事件としています。
寄進地系荘園と不輸不入
寄進地系荘園は、土地を開発した領主が、国司の取り立てから逃れるために、その土地を中央の有力な貴族や寺社に寄進することで成り立った荘園です。11世紀ごろから多くなりました(デジタル大辞泉)。寄進した側は現地の支配を続け、寄進を受けた側は国から特権を得ます。
その特権が不輸不入です。不輸は租税を免除されること、不入は国の役所から派遣される検田使などの立ち入りを拒むことを指します(デジタル大辞泉)。
前九年の役と後三年の役
11世紀の半ばから後半にかけて、東北地方で起きた二つの戦いです。
| 戦い | 時期 | 相手 | 源氏の中心人物 |
|---|---|---|---|
| 前九年の役 | 1051〜1062年(1056年からとする説明もある) | 陸奥の安倍氏 | 源頼義・義家の父子 |
| 後三年の役 | 1083〜1087年 | 奥羽の清原氏(一族の内紛) | 源義家 |
後三年の役では、源義家が藤原清衡を助けて清原家衡らを滅ぼしました(デジタル大辞泉)。この清衡が、のちに中尊寺金色堂を建てる人物です。
院政と武士——上皇の政治から平氏政権へ
後三条天皇と延久の荘園整理令
1068年(治暦4年)に即位した後三条天皇は、藤原氏を外戚としない天皇でした。1069年(延久元年)に延久の荘園整理令を出し、荘園の証拠書類を審査する記録荘園券契所を設けます。1045年(寛徳2年)より後に新しくできた荘園などを停止する内容で、改訂新版 世界大百科事典は、かなり効果があったと考えられるとしています。
902年の延喜の荘園整理令とは、一字違いで167年の開きがあります。延喜=醍醐天皇、延久=後三条天皇と、天皇とセットで区別してください。
院政(いんせい)
位を譲った天皇(上皇)が、院で政治を行う形です。1086年(応徳3年)、白河天皇が幼い堀河天皇に位を譲り、上皇として政治を見たのが始まりで、白河上皇は堀河・鳥羽・崇徳の3代、43年にわたって政治を主導しました(デジタル大辞泉)。→ 院政
- 院宣:上皇の命令を、側近が受けて書く文書。
- 院近臣:上皇の手足となって働いた、中流以下の貴族たち。受領の層の貴族や実務にたけた役人が含まれる。
- 北面の武士:院の御所の北面に詰めて警備にあたった武士。白河上皇のときに置かれた。
山川 日本史小辞典の「外戚」は、院政期には上皇の父としての権限が確立するのにともなって、外戚の地位が低下したとしています。母方の祖父(外戚)が後見する摂関政治から、父や祖父である上皇が後見する院政へと整理すると、二つの違いがつかみやすくなります。
保元の乱と平治の乱
- 保元の乱(1156年):皇位をめぐって崇徳上皇と後白河天皇が、摂関家では藤原頼長と忠通が対立し、双方が武士を招いて戦った。源義朝と平清盛がついた後白河天皇方が勝ち、崇徳上皇は讃岐に流された。
- 平治の乱(1159年):後白河上皇の近臣どうしの対立に、源義朝と平清盛の対立が結びついた戦い。藤原信頼と結んだ義朝が挙兵したが清盛に敗れ、義朝の子の頼朝は伊豆に流された。
デジタル大辞泉は、保元の乱を、貴族の無力化と武士の実力を示し、武士が政界に進出するきっかけになった事件としています。二つの乱の対立の構図は、保元の乱と平治の乱の違いで比べています。
平清盛と平氏政権
平清盛(1118〜1181年)は、平治の乱のあと急速に昇進しました。改訂新版 世界大百科事典によると、1160年に武士として初めて公卿に列し、1167年(仁安2年)には太政大臣になっています。→ 平清盛
清盛は、娘の徳子を高倉天皇の后とし、徳子が産んだ安徳天皇が1180年に即位すると、天皇の外祖父となりました。武士の清盛も、藤原氏と同じく外戚という道を通ったわけです。
経済の面では、大輪田泊(現在の神戸)を修築して、宋の船が瀬戸内海に入れるようにしました。日宋貿易では、宋から銅銭・陶磁器・香料などを輸入し、日本からは刀剣・硫黄・砂金などを輸出しています(デジタル大辞泉)。→ 日宋貿易
治承・寿永の乱(源平の争乱)
1180年から1185年にかけて、源氏と平氏の対立という形で広がった全国的な内乱です。山川 日本史小辞典によると、1179年に清盛が後白河上皇を閉じ込めて平氏の独裁を固めると、かえって広い層の反発を招き、翌1180年、以仁王が平氏を討つよう命じた令旨をきっかけに内乱が全国へ広がりました。同じ年の8月に源頼朝が伊豆で兵を挙げ、10月には鎌倉に入っています。→ 治承・寿永の乱
1185年3月、長門の壇ノ浦の戦いで平氏は源義経の率いる軍に敗れ、安徳天皇は海に沈み、平氏は滅びました。→ 壇ノ浦の戦い
このあとの鎌倉幕府の仕組みは、守護と地頭の違いへ続きます。
- 794平安京遷都桓武天皇。784年の長岡京から移る
- 866藤原良房が摂政に臣下で最初の摂政
- 894遣唐使の停止菅原道真の建議による
- 902延喜の荘園整理令最初の荘園整理令
- 939〜941承平・天慶の乱平将門と藤原純友の反乱
- 1016藤原道長が摂政に外孫の後一条天皇が即位
- 1052末法の初年とされる藤原頼通が平等院を開く。翌年に鳳凰堂
- 1068後三条天皇の即位藤原氏を外戚としない天皇。翌年に延久の荘園整理令
- 1086白河上皇の院政が始まる堀河天皇に譲位
- 1156・1159保元の乱・平治の乱武士が政界に進出するきっかけ
- 1167平清盛が太政大臣に
- 1180〜1185治承・寿永の乱1185年の壇ノ浦の戦いで平氏が滅びる
文化——唐風から国風へ、そして浄土信仰へ
弘仁・貞観文化と最澄・空海
平安前期(9世紀)の文化を、嵯峨天皇と清和天皇のときの年号から弘仁・貞観文化と呼びます。山川 日本史小辞典は、唐の文化への理解が深まったことを土台に、平安京を中心に学問が発展し、仏教では密教が発展したとしています。→ 弘仁・貞観文化
この時期に活躍したのが最澄と空海です。次の表はデジタル大辞泉の記述によります。
| 人物 | 生没年 | 開いた宗派 | 拠点 |
|---|---|---|---|
| 最澄(伝教大師) | 767〜822年 | 天台宗 | 比叡山 |
| 空海(弘法大師) | 774〜835年 | 真言宗 | 高野山の金剛峯寺、京都の東寺 |
二人とも、804年(延暦23年)に唐へ渡っています。
遣唐使の停止と菅原道真
894年(寛平6年)、遣唐大使に任命された菅原道真が、唐の衰えや航海の危険を理由に派遣をやめるよう求め、認められました。その後、遣唐使が任命されることはありませんでした(改訂新版 世界大百科事典)。→ 遣唐使の廃止 / 菅原道真
日本大百科全書によると、平安時代に遣唐使が送られたのは804年と838年の2回だけで、それ以降は途絶えていました。894年は、長く続いていた派遣が突然やめられた年というより、半世紀以上途絶えていた派遣が、正式に取りやめになった年です。
道真(845〜903年)は右大臣まで昇りましたが、901年(延喜元年)に藤原時平の中傷によって大宰府へ左遷され、その地で亡くなりました。のちに天満天神としてまつられます。
国風文化
10世紀から11世紀にかけて栄えた、日本風の貴族文化です。かな文字で書かれた和歌や物語、寝殿造の住宅、大和絵、浄土教の美術などに特色があります。→ 国風文化
ブリタニカ国際大百科事典や旺文社日本史事典は、遣唐使の停止を国風文化が生まれるきっかけとして説明しています。一方、山川 日本史小辞典は、国風文化を9世紀の唐風文化を土台に発展した日本風の文化としています。「唐の影響がなくなったから日本独自の文化が生まれた」というより、取り入れた唐の文化を消化したうえで形になったと理解するほうが、両方の説明に合います。
かな文学——古今和歌集、紫式部、清少納言
古今和歌集は、醍醐天皇の命で紀貫之らが選んだ、最初の勅撰和歌集です。905年(延喜5年)に命が出て、913年ごろに成立しました(デジタル大辞泉)。→ 古今和歌集
精選版 日本国語大辞典は、枕草子を「をかし」の美を軸にした作品で、源氏物語と並ぶ平安文学の双璧としています。二人が仕えた彰子と定子は、どちらも一条天皇の后でした。改訂新版 世界大百科事典によると、道長は、兄の娘の定子がすでに后だったところへ娘の彰子を后に立て、二人の后が並ぶ新しい例を開いています。文学史の二人は、摂関政治の后の争いの両側にいたことになります。→ 紫式部 / 清少納言
末法思想・浄土教・平等院鳳凰堂
平安時代の後半には、仏の教えが衰える末法の世が来るという末法思想が広まり、阿弥陀仏の極楽浄土への往生を願う浄土教が盛んになりました。平等院の公式サイトによると、1052年(永承7年)、関白の藤原頼通が父の道長から譲り受けた別荘を寺に改めて平等院を開きました。この年は末法の初年にあたるとされ、翌1053年(天喜元年)に阿弥陀堂(鳳凰堂)が完成しています。→ 末法思想 / 浄土教 / 平等院鳳凰堂
末法の年代の数え方や、浄土教との前後関係は末法思想とはで詳しく扱っています。
院政期の文化
- 中尊寺金色堂:1124年(天治元年)、藤原清衡が建てた阿弥陀堂。内外に金箔を押している(山川 日本史小辞典)。
- 今昔物語集:12世紀前半に成立したとされる説話集。31巻で、インド・中国・日本の1000あまりの話を収める。
- 梁塵秘抄:後白河法皇が選んだ、今様などの歌謡を集めた書物。
- 鳥獣戯画:京都の高山寺に伝わる4巻の絵巻。鳥羽僧正の筆と伝えられるが、はっきりしていない。前半の巻は12世紀、後半の巻は13世紀(鎌倉時代)の作とされる。
平安時代の貴族の住まいである寝殿造が、室町時代にどう受け継がれ、書院造へ変わっていったかは、北山文化と東山文化の違いで金閣と銀閣を例に扱っています。
混同しやすい点
名前や時期が近い語句は、対にして区別します。
| 取り違えやすい組 | 見分け方 |
|---|---|
| 摂政と関白 | 摂政は天皇が幼いとき、関白は成人後 |
| 延喜の荘園整理令と延久の荘園整理令 | 延喜は902年・醍醐天皇、延久は1069年・後三条天皇 |
| 承平・天慶の乱と保元・平治の乱 | 前者は10世紀前半の地方の反乱(将門・純友)、後者は12世紀半ばの京都の戦い |
| 前九年の役と後三年の役 | 前九年は安倍氏と源頼義・義家、後三年は清原氏の内紛と源義家 |
| 紫式部と清少納言 | 紫式部は彰子に仕えて源氏物語、清少納言は定子に仕えて枕草子 |
| 藤原道長と藤原頼通 | 道長は内覧・摂政(関白にはなっていない)、頼通は摂政・関白で平等院を開く |
| 長岡京と平安京 | 784年が長岡京、794年が平安京。どちらも桓武天皇 |
もう一つ、時期の並びにも注意が必要です。延喜・天暦の治(10世紀)は摂関政治の全盛期(11世紀前半)より前で、院政の開始(1086年)は平等院鳳凰堂(1053年)より後です。政治と文化の語句を、上の年表で同じ線の上に置いて確かめてください。
確認問題
第1問
天皇の母方の親族を何と呼びますか。また、藤原氏がこの立場を得るために、娘を天皇の后として内裏に入れたことを何と呼びますか。
答え:外戚と、入内です。 生まれた皇子が即位すれば天皇の外祖父となり、摂政・関白として政治を主導しました。
第2問
次の文は正しいですか、誤っていますか。 「藤原道長は関白として摂関政治の全盛期を築き、その日記は『御堂関白記』と呼ばれる。」
答え:誤りです。 道長は内覧・摂政・太政大臣にはなりましたが、関白にはなっていません。『御堂関白記』は後の時代の呼び方です。
第3問
次の出来事を、古い順に並べてください。
- ア:白河上皇の院政が始まる
- イ:延喜の荘園整理令
- ウ:保元の乱
- エ:藤原道長が摂政になる
答え:イ(902年)→ エ(1016年)→ ア(1086年)→ ウ(1156年)です。
第4問
次のうち、国風文化に当てはまらないものはどれでしょう。
- ア:古今和歌集
- イ:枕草子
- ウ:最澄と空海による密教の広まり
- エ:平等院鳳凰堂
答え:ウです。 最澄と空海が活躍したのは9世紀で、弘仁・貞観文化の時期にあたります。
さらに演習するなら、平安時代の一問一答と、原因と結果のつながりを問う平安時代の因果クイズが使えます。
まとめ
- 平安初期:桓武天皇が784年に長岡京、794年に平安京へ都を移す。蔵人所・検非違使などの令外官が置かれる。
- 摂関政治:藤原氏が外戚(天皇の母方の親族)として摂政・関白を独占する。良房が臣下で最初の摂政、基経が最初の関白。道長・頼通のときが全盛期。
- 地方と土地:902年に延喜の荘園整理令。受領が国の政務を握り、承平・天慶の乱で地方の武士の力が表に出る。寄進地系荘園が増える。
- 院政と武士:1068年に後三条天皇が即位、1086年に白河上皇の院政が始まる。保元・平治の乱を経て平清盛が太政大臣となり、1185年の壇ノ浦の戦いで平氏が滅びる。
- 文化:9世紀の弘仁・貞観文化(密教・漢詩文)から、10〜11世紀の国風文化(かな文学・浄土教)へ。院政期には今昔物語集や鳥獣戯画が生まれる。
語句を一つずつ覚えるより、**「このとき政治の中心にいたのは誰か」**を確かめながら並べると、年代の前後で迷いにくくなります。
参考資料
- コトバンク「平安時代」「平安京」「長岡京」(デジタル大辞泉、精選版 日本国語大辞典、日本大百科全書(ニッポニカ)、改訂新版 世界大百科事典)
- コトバンク「桓武天皇」「坂上田村麻呂」「令外官」「勘解由使」「蔵人所」「検非違使」「薬子の変」(改訂新版 世界大百科事典、百科事典マイペディア、デジタル大辞泉、精選版 日本国語大辞典)
- コトバンク「外戚」「入内」「摂政」「関白」「摂関政治」(山川 日本史小辞典、旺文社日本史事典、デジタル大辞泉、改訂新版 世界大百科事典、日本大百科全書(ニッポニカ))
- コトバンク「承和の変」「藤原良房」「藤原基経」「安和の変」(改訂新版 世界大百科事典、デジタル大辞泉、精選版 日本国語大辞典)
- コトバンク「藤原道長」「御堂関白記」「内覧」「藤原頼通」(日本大百科全書(ニッポニカ)、改訂新版 世界大百科事典、デジタル大辞泉)
- コトバンク「荘園」「荘園整理令」「延喜の荘園整理令」「寄進地系荘園」「不輸不入」(デジタル大辞泉、山川 日本史小辞典、改訂新版 世界大百科事典)
- コトバンク「延喜・天暦の治」「受領」「承平・天慶の乱」(日本大百科全書(ニッポニカ)、改訂新版 世界大百科事典、百科事典マイペディア、デジタル大辞泉)
- コトバンク「前九年の役」「後三年の役」「中尊寺金色堂」(デジタル大辞泉、改訂新版 世界大百科事典、山川 日本史小辞典)
- コトバンク「後三条天皇」「院政」「白河天皇」「北面の武士」(改訂新版 世界大百科事典、日本大百科全書(ニッポニカ)、デジタル大辞泉)
- コトバンク「保元の乱」「平治の乱」「平清盛」「日宋貿易」(デジタル大辞泉、精選版 日本国語大辞典、改訂新版 世界大百科事典)
- コトバンク「治承・寿永の乱」「壇ノ浦の戦い」(山川 日本史小辞典、精選版 日本国語大辞典)
- コトバンク「弘仁・貞観文化」「国風文化」「最澄」「空海」(山川 日本史小辞典、ブリタニカ国際大百科事典、旺文社日本史事典、デジタル大辞泉)
- コトバンク「遣唐使」「菅原道真」(改訂新版 世界大百科事典、日本大百科全書(ニッポニカ)、デジタル大辞泉)
- コトバンク「古今和歌集」「紫式部」「清少納言」「源氏物語」「枕草子」(デジタル大辞泉、精選版 日本国語大辞典)
- コトバンク「今昔物語集」「梁塵秘抄」「鳥獣戯画」(デジタル大辞泉、精選版 日本国語大辞典)
- 平等院の歴史(平等院 公式サイト)
- ユネスコ「世界の記憶」登録一覧(文部科学省)


