幕末の流れは、開国(1853〜54年)→ 通商条約への反発と弾圧(1858〜60年)→ 攘夷の挫折(1862〜64年)→ 長州の敗北と薩長の接近(1864〜66年)→ 大政奉還と王政復古(1867年)→ 戊辰戦争(1868〜69年)の6段階で押さえると、出来事どうしのつながりが見えやすくなります。年号を覚えるときも、どの出来事が次の何のきっかけになったのかを一緒に言えると、並べ替え問題や論述で迷いにくくなります。
幕末の年表
- 1853ペリーが浦賀に来航6月。翌1854年1月に再び来航する
- 1854日米和親条約3月3日。下田・箱館を開く
- 1858日米修好通商条約6月19日。大老井伊直弼が勅許を待たずに調印
- 1858〜59安政の大獄井伊直弼が反対派を処罰する
- 1860桜田門外の変3月3日。井伊直弼が江戸城桜田門外で殺される
- 1862生麦事件8月21日。翌年の薩英戦争のきっかけになる
- 1863長州藩の外国船砲撃・薩英戦争・八月十八日の政変5月10日の攘夷期日、7月の鹿児島湾での戦い、8月の京都の政変
- 1864禁門の変・四国連合艦隊の下関砲撃・第一次長州征討長州藩が京都と下関で敗れ、幕府に恭順する
- 1866薩長同盟・第二次長州征討1月に同盟。6月からの征討は幕府側に不利なまま撤兵
- 1867大政奉還・王政復古の大号令10月14日に上表、12月9日に大号令と小御所会議
- 1868鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争の始まり)1月3日。4月11日に江戸城が新政府軍に引き渡される
- 1869箱館戦争の終結5月18日。戊辰戦争が終わる
1. 開国:ペリー来航と日米和親条約(1853〜54年)
1853年(嘉永6)6月、アメリカのペリーが4隻の艦隊を率いて浦賀に来航し、大統領フィルモアの国書を渡して開国を求めました。幕府が回答を翌年まで待つよう求めたため、ペリーはいったん去ります。翌1854年1月に7隻で再び来航し、3月3日に日米和親条約が結ばれました。
日米和親条約の主な内容は次のとおりです。
- 下田と箱館(函館)の2港を開く
- アメリカ船に薪水・食料・石炭などを供給する
- 遭難した船員を救助する
- 下田に領事を置くことを認める
- アメリカだけに有利な最恵国待遇(片務的最恵国待遇)を認める
この条約は港を開いて補給を認めるもので、自由な貿易は含んでいません。貿易が始まるのは、次の通商条約からです。
2. 通商条約への反発と弾圧(1858〜60年)
勅許のない調印
1858年(安政5)6月19日、日米修好通商条約が結ばれました。調印したのは下田奉行の井上清直と目付の岩瀬忠震で、大老の井伊直弼が、孝明天皇の勅許を待たずに調印に踏み切りました。それより前に老中堀田正睦が京都で勅許を求めましたが、得られなかったと世界大百科事典は説明しています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 開港 | 神奈川・長崎・箱館(1859年から)。新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市も期日を定めた |
| 領事裁判権 | 日本にいるアメリカ人の犯罪は、アメリカの領事が裁く |
| 関税 | 税率を両国の協定で決める(協定関税)。日本が自由に決められない |
同じころ、13代将軍徳川家定の跡継ぎをめぐって、一橋慶喜(徳川斉昭の子)を推す一橋派と、紀州藩主の徳川慶福(のちの14代将軍家茂)を推す南紀派が対立していました(将軍継嗣問題)。南紀派の井伊直弼が1858年4月に大老になり、同年6月に慶福が跡継ぎに決まります。
安政の大獄から桜田門外の変へ
条約の無勅許調印と将軍継嗣問題に反対した公家・大名・志士を、井伊直弼は1858〜59年にかけて処罰しました。これが安政の大獄です。朝廷が水戸藩に直接下した勅諚(戊午の密勅)を幕府が問題視したことも、背景に挙げられています。吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎らが死罪となり、一橋派の徳川斉昭・松平慶永らも処罰されました。
1860年(安政7)3月3日、井伊直弼は江戸城の桜田門外で、水戸浪士17名と薩摩藩士1名に襲われて殺されました(桜田門外の変)。山川日本史小辞典と日本大百科全書は、この事件で幕府の威信が失墜し、幕末の政局が転換したと説明しています。
3. 公武合体と攘夷の挫折(1860〜64年)
公武合体
井伊の死後、老中の安藤信正らは、朝廷(公)と幕府(武)が協力して政局を安定させる公武合体を進めました。孝明天皇の妹の和宮は1861年に江戸へ下向し、1862年に14代将軍徳川家茂と婚礼を挙げました(国立国会図書館「和宮」、江戸東京博物館の解説)。
欧米との衝突と、攘夷の見直し
1862年から1864年にかけて、薩摩藩・長州藩と欧米の国々の間で武力衝突が続きました。
- 1862年(文久2)8月21日、江戸から帰る島津久光(薩摩藩主の父)の行列に、騎馬のイギリス人4人が行き合い、藩士に斬られて1人が殺され、2人が負傷しました(生麦事件)。イギリスは幕府に謝罪と賠償金を、薩摩藩に犯人の処罰と賠償金を求めました。幕府は応じましたが薩摩藩は応じず、1863年6月末にイギリス艦隊7隻が鹿児島湾に入り、7月2日から薩英戦争になりました
- 1863年5月10日の攘夷の期日に、長州藩は下関海峡を通る外国船を砲撃しました
- 1864年(元治元)8月、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が下関を砲撃し、3日間で砲台を破壊しました
世界大百科事典とマイペディアは、薩英戦争のあと薩摩藩が攘夷の非を認め、イギリスとの提携を深めたと説明しています。長州藩も、山川日本史小辞典によると、下関での講和のあと開国論に転じ、討幕へ向かいました。
京都からの長州藩の後退
1863年8月18日、薩摩藩と会津藩が、長州藩と三条実美ら尊王攘夷派の公家を京都から追い出しました。三条らが長州へ逃れたことを七卿落ちといいます(八月十八日の政変)。長州藩は翌1864年7月、勢力を取り戻そうと兵を京都に進めましたが、会津・薩摩などの藩兵に敗れました(禁門の変、蛤御門の変)。その直前の池田屋事件で、尊王攘夷派の志士が新選組に殺傷・捕縛されたことが、出兵のきっかけになったとされています。
禁門の変のあと長州藩を討つ命令が出て、第一次長州征討が行われました。下関砲撃でも敗れていた長州藩では保守派が力を持ち、戦わずに幕府に恭順しました。
4. 薩長同盟と、長州再征の失敗(1865〜66年)
長州藩では、奇兵隊などの諸隊が保守派を倒し、藩の方針が討幕に変わりました。幕府は再び長州を討つと決めますが、薩摩藩は出兵を拒みます。
1866年(慶応2)1月、京都で、薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀と長州藩の木戸孝允(桂小五郎)が、坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介で盟約を結びました。これが薩長同盟(薩長盟約・薩長連合)です。世界大百科事典によると、長州再征への対処を定めた6か条で、薩摩藩は幕府の征長を背後から妨げることになりました。
1866年6月に始まった第二次長州征討は幕府側に不利に進み、14代将軍家茂の死をきっかけに兵が引き揚げられました。旺文社日本史事典は、これで幕府の権威は完全に失墜したと書いています。
5. 大政奉還と王政復古(1867年)
1867年(慶応3)10月3日、土佐藩は山内豊信(容堂)の名で、大政奉還を勧める建白書を老中板倉勝静を通じて将軍に出しました。中心になって進めたのは藩士の後藤象二郎です。10月14日、徳川慶喜は政権を朝廷に返すと申し出て、翌15日に勅許されました。
同じ10月14日、薩摩・長州の討幕派は「討幕の密勅」を得ていました。大政奉還によって徳川家が主導権を保つ道が開けたため、討幕派は12月9日、王政復古の大号令を出させて新政府をつくります。同じ夜の小御所会議では、山内豊信・松平慶永ら公議政体派が慶喜の参加を求めましたが、岩倉具視・大久保利通ら討幕派が押し切り、慶喜に官職の辞退と領地の返上(辞官納地)を命じることが決まりました。
6. 戊辰戦争(1868〜69年)
王政復古に憤る旧幕府軍・会津藩兵などの暴発を恐れて、慶喜は二条城から大坂城へ移りました。小御所会議の約3週間後、1868年(慶応4)1月3日、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍と新政府軍が衝突し、戊辰戦争が始まります。1868年が干支で戊辰の年にあたることが、名前の由来です。
- 4月11日、江戸城が新政府軍に引き渡される
- 5月3日、東北の諸藩が奥羽列藩同盟を結ぶ
- 9月、会津藩が降伏する
- 1869年(明治2)5月18日、箱館の五稜郭で榎本武揚らが降伏し、戦争が終わる
出来事のつながりを3種類に分ける
「Aが起きたからBが起きた」と覚えるとき、AとBの関係はいつも同じではありません。辞典の説明をもとに、3種類に分けました。
| 前の出来事 | 後の出来事 | つながり | 辞典の説明 |
|---|---|---|---|
| 生麦事件(1862) | 薩英戦争(1863) | きっかけ | 賠償の要求に薩摩藩が応じず、イギリス艦隊が来航した |
| 池田屋事件(1864) | 禁門の変(1864) | きっかけ | 事件の知らせで長州藩の急進派が藩論を押さえた |
| 禁門の変(1864) | 第一次長州征討(1864) | きっかけ | 長州追討の命令が出た |
| 長州再征の動き | 薩長同盟(1866) | きっかけ | 盟約は長州再征への対処を定めたもの |
| 無勅許調印・将軍継嗣問題・戊午の密勅 | 安政の大獄(1858〜59) | 背景 | 複数の対立が重なって処罰が広がった |
| 安政の大獄・戊午の密勅 | 桜田門外の変(1860) | 背景 | 水戸藩への処罰と勅諚の返上問題が襲撃の原因になった |
| 大政奉還(1867.10) | 王政復古の大号令(1867.12) | 対抗 | 慶喜の意図を察した討幕派が、大政奉還のねらいを覆した |
| 王政復古の大号令・小御所会議(1867.12) | 鳥羽・伏見の戦い(1868.1) | 背景 | 旧幕府側の反発のなかで、約3週間後に戦いが始まった |
「きっかけ」は、前の出来事がすぐ後の行動を引き起こした関係です。「背景」は、いくつかの原因が重なっていて、一つだけを原因と言い切れない関係。「対抗」は、相手の動きを打ち消すために次の手が打たれた関係です。ペリー来航から日米和親条約、日米修好通商条約へと進む流れのように、順番は決まっていても、前の出来事だけで次を説明できないものもあります。
論述問題で「〜の結果」と書くときは、このどれに当たるかを一度考えると、因果を言い過ぎずに済みます。
日本史因果クロニクルの幕末カード
RandaWorksのデッキ構築ローグライク『日本史因果クロニクル』は、日本史の出来事をカードにして、決められた順番でつなぐとコンボが発動するゲームです。製品版(Steam)は飛鳥時代から幕末までを収録しています。発売時の案内では、無料体験版で使える英雄は織田信長と紫式部の2人で、全時代のカードとコンボを収録しているのは製品版です。
ゲームでは、出来事のカードをつなぐ順番を考えながら歴史に触れられます。ゲーム内のつながりは遊びのために短く整理したもので、史実の因果をすべて説明するものではありません。気になった出来事を、この記事の年表や出典で確かめてください。発売時の内容は『日本史因果クロニクル』Steam版を発売しました、最新の内容・価格と対応環境はSteamストアページで確認できます。
確認クイズ(10問)
答えは各問の「答え」を開いて確認してください。
問1. 1854年の日米和親条約で開いた港を2つ答えなさい。
答え
下田・箱館(函館)和親条約は港を開いて薪水・食料などの補給を認める条約で、貿易は含みません。
問2. 日米修好通商条約の調印で、大老井伊直弼が強く批判された理由を答えなさい。
答え
孝明天皇の勅許を得ないまま調印したから老中堀田正睦が京都で勅許を求めましたが得られず、井伊直弼は勅許を待たずに調印に踏み切りました。
問3. 日米修好通商条約のうち、日本に不利だった内容を2つ答えなさい。
答え
領事裁判権を認めたこと、関税を日本が自由に決められない(協定関税)こと関税自主権がないことを「関税自主権の否定」と書く辞典もあります。
問4. 安政の大獄で死罪となった人物を1人答えなさい。
答え
吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎など条約の無勅許調印や将軍継嗣問題に反対した人々が処罰されました。
問5. 桜田門外の変のあと、老中安藤信正らが進めた、朝廷と幕府の協力で政局を安定させようとする方針を何というか。
答え
公武合体和宮の江戸下向は1861年、将軍家茂との婚礼は1862年です。和宮降嫁は公武合体の代表例です。
問6. 1863年の薩英戦争のきっかけとなった、前年の事件を答えなさい。
答え
生麦事件(1862年)イギリスの賠償要求に薩摩藩が応じなかったため、イギリス艦隊が鹿児島湾に来ました。
問7. 1863年8月18日、薩摩藩と会津藩によって京都から追われた藩を答えなさい。
答え
長州藩三条実美ら尊王攘夷派の公家も京都を追われ、長州へ逃れました(七卿落ち)。
問8. 1866年の薩長同盟を仲介した人物を2人答えなさい。
答え
坂本龍馬、中岡慎太郎薩摩藩からは西郷隆盛・小松帯刀、長州藩からは木戸孝允が加わりました。
問9. 大政奉還を勧める建白書を出した藩と、建白書の名義となった人物を答えなさい。
答え
土佐藩、山内豊信(容堂)建白は1867年10月3日、藩士の後藤象二郎が中心になって進めました。
問10. 次の出来事を、起きた順に並べなさい。(ア)禁門の変 (イ)桜田門外の変 (ウ)大政奉還 (エ)薩英戦争
答え
(イ)→(エ)→(ア)→(ウ)桜田門外の変は1860年、薩英戦争は1863年、禁門の変は1864年、大政奉還は1867年です。
まとめ
- 1853年のペリー来航から1854年の日米和親条約で開国し、1858年の日米修好通商条約が勅許なしに調印された
- 条約と将軍継嗣問題への反対を井伊直弼が安政の大獄で抑え、1860年に桜田門外の変で殺された
- 薩摩藩は薩英戦争、長州藩は四国連合艦隊の下関砲撃で欧米の軍事力を知り、攘夷の方針を改めた
- 長州藩は京都で敗れて第一次長州征討で恭順したが、討幕へ転じ、1866年に薩長同盟を結んだ。第二次長州征討は幕府側に不利なまま終わった
- 1867年10月に大政奉還、12月に王政復古の大号令。小御所会議の辞官納地のあと、1868年1月の鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争が始まり、1869年5月に終わった
資料で分かれる点
- 幕末の範囲:デジタル大辞泉は1854年の開国から1867年の大政奉還まで(またはそれに至る30〜40年間)とし、日本大百科全書は、始まりを開国に置くか天保の改革に置くかで研究者の見解が分かれると説明しています。
- 日米和親条約の締結地:日本大百科全書は武蔵国横浜村、ブリタニカ国際大百科事典と精選版日本国語大辞典は神奈川と書いています。神奈川条約とも呼ばれます。
- 領事裁判権と治外法権:日米修好通商条約について、多くの辞典は領事裁判権と書き、精選版日本国語大辞典は治外法権と書いています。
- 安政の大獄の処罰者数:デジタル大辞泉などは8名が死刑、世界大百科事典(旧版)の「井伊直弼」の項は吉田松陰ら7人が刑死としており、数え方が分かれます。
- 桜田門外の変の年号:1860年は途中で安政から万延に改元された年で、事件の日付を「安政7年」とする説明と「万延元年」とする説明があります。
- 生麦事件の死傷者:世界大百科事典はリチャードソンが殺され2名が負傷したとし、旺文社日本史事典は「3名を殺傷」と書いています。
- 禁門の変の日付:精選版日本国語大辞典とブリタニカ国際大百科事典は7月18日、世界大百科事典は7月19日としています。
- 薩長同盟の薩摩側の人物:世界大百科事典とブリタニカは西郷隆盛・小松帯刀、防府市歴史用語集は西郷隆盛・大久保利通を挙げています。
- 第二次長州征討の結果:旺文社日本史事典は、戦況が不利で将軍家茂の死を機に撤兵したと書き、「敗北」という語は使っていません。
- 大政奉還の西暦表記:上表の日を「1867年10月14日」と書く辞典と、太陽暦に換算して「1867年11月9日」と書く百科事典マイペディアがあります。
定期テストや入試では、授業で使っている教科書・資料集の書き方に合わせてください。
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