人返し令と旧里帰農令は「どの改革か」と「やり方」が違います
人返し令(ひとがえしれい)は、1843年(天保14年)に老中水野忠邦が天保の改革で出した法令で、江戸の人別改めを強め、農村から江戸へ新たに移り住むことを禁じました。旧里帰農令(きゅうりきのうれい)は、1790年(寛政2年)に老中松平定信が寛政の改革で出した法令で、江戸に出てきた人のうち帰農を願い出た者に、旅費や農具代などを与えて帰村を勧めました。どちらも「江戸に集まった農村出身者を村へ戻し、江戸の人口を抑える」ための政策ですが、約半世紀の時間差があり、資金を出して勧める旧里帰農令と、移住そのものを規制する人返し令という違いがあります。
名前も目的も似ているので、試験では入れ替えて問われやすい組み合わせです。以下、それぞれの法令を「いつ・誰が」「中身」「背景」「結果」の順に確かめます。
旧里帰農令とは——寛政の改革の帰農奨励策
いつ、誰が出したか
旧里帰農令は、寛政の改革を進めた老中松平定信のもとで、1790年(寛政2年)に出されました。精選版 日本国語大辞典の「人返し」の項は、この年の11月に帰農者へ手当などが支給されたとしています。
松平定信は、1787年(天明7年)6月に老中首座となり、1793年(寛政5年)7月に老中を辞めるまで改革を主導しました(日本大百科全書)。当時の将軍は11代の徳川家斉です。→ 松平定信 / 寛政の改革
世界大百科事典(旧版)の「手余地」の項は、旧里帰農奨励令が1790年、1791年、1793年と続けて公布されたとしています。一度きりの命令というより、数年にわたって繰り返された帰農奨励の政策と見るほうが、この説明には合います。
中身——「帰りたい人には援助する」
内容は、江戸に出てきた農民のうち、故郷に帰って農業に戻りたい者を幕府が援助するというものです。辞典の説明を並べると、援助の中身は次のとおりです。
- 帰農を願い出た者に、旅費や農具代を与える(日本大百科全書「寛政の改革」)
- 帰農する意志のある者には田畑を提供し、旅費や夫食(ぶじき。当座の食料)、農具代まで与える(改訂新版 世界大百科事典「人返し」)
- 帰村の費用や田畑の購入費まで支給する(世界大百科事典(旧版)「手余地」)
大事なのは、帰農を願い出た者が対象だったという点です。帰るかどうかは本人の意思に任されており、援助を用意して勧める政策でした。
背景——天明の飢饉と江戸の打ちこわし
寛政の改革の直前には、1782年から1787年にかけての天明の飢饉がありました。各地で打ちこわしが起こり、1787年(天明7年)5月には江戸でも数日間にわたる打ちこわしが起きています(日本大百科全書)。
改訂新版 世界大百科事典は、旧里帰農令のねらいを、江戸の人口過剰による需給の不安定や、打ちこわしの原因となる条件を取り除くことにあったとし、荒れた関東の農村を立て直す意図も含まれていたとしています。日本大百科全書も、打ちこわしの主体となる都市の貧民を減らし、あわせて農村の人口を増やそうとする「一石二鳥」の政策だったと説明しています。
つまり旧里帰農令は、江戸の治安と食料の問題と、農村の働き手と年貢の問題の両方に手を打とうとした政策でした。
同じ改革の中での位置づけ
寛政の改革では、同じ目的に向けた別の政策も出されています。
| 政策 | 中身 | 向き |
|---|---|---|
| 旧里帰農令 | 帰農を願い出た者に資金を与える | 江戸から村へ帰す |
| 他国出稼ぎの制限 | 農民が他国へ出稼ぎに出ることを制限する | 村から出さない |
| 人足寄場(1790年) | 江戸の石川島に無宿人などを収容し、仕事を身につけさせる | 江戸の中で立て直す |
| 七分積金・町会所 | 江戸の町の費用を節約して積み立て、窮民の救済に備える | 江戸の中で備える |
表の政策は、日本大百科全書の「寛政の改革」が挙げているものです。「寛政の改革は勧めるだけだった」と覚えると、出稼ぎの制限という規制の面を見落とします。旧里帰農令そのものは奨励策で、改革全体には制限策もあったと分けておくと正確です。→ 人足寄場
結果——願い出る者は少なかった
旧里帰農令は十分な成果を上げませんでした。改訂新版 世界大百科事典によると、幕府は希望者が多くなり過ぎることを心配していたほどでしたが、実際に帰農を願い出た者は少なかったとされます。旺文社日本史事典も、効果はなかったと記しています。
人返し令とは——天保の改革の人口対策
いつ、誰が出したか
人返し令は、天保の改革を進めた老中水野忠邦のもとで、1843年(天保14年)に出されました。精選版 日本国語大辞典の「人返し」の項は、この年の3月に厳しい人別改令が出されたとしています。「人返しの法」とも呼ばれます。
日本大百科全書によると、水野忠邦は1839年(天保10年)に老中首座となり、1841年(天保12年)閏正月に大御所の徳川家斉が亡くなったあと、12代将軍家慶のもとで改革を進めました。改革が行われた期間は、通常、同年5月から1843年閏9月に水野が退くまでの約2年半とされます。→ 水野忠邦 / 天保の改革
中身——辞典の説明を並べる
人返し令の中身は、辞典によって説明の重点が少しずつ違います。主なものを並べます。
| 辞典(項目) | 説明している中身 |
|---|---|
| 旺文社日本史事典(人返しの法) | 農村の窮民が江戸に流れ込むことを禁じ、江戸に出てきた農民も、長年商売をして妻子をもち江戸の人別帳に載っている者以外は帰農させた |
| ブリタニカ国際大百科事典(人返し) | 帰郷の奨励、江戸移住の禁止、出稼ぎ奉公人の年数制限 |
| 百科事典マイペディア(人返し) | 江戸移住の禁止、出稼ぎ年限の規制 |
| 世界大百科事典(旧版)(天保改革) | 江戸への出稼ぎ人の帰農を奨励し、新たに農村から江戸へ移住することを禁止 |
| 改訂新版 世界大百科事典(人返し) | 江戸の人別改めを行い、近年入ってきて裏店に住む者を出生地などへ帰す方針を出した。無宿などを取り締まって江戸から追放する強い手段もとった |
| 山川 日本史小辞典(人返の法) | 人々を強制的に帰村させるものではなく、都市の人別改めを強化して江戸の人口増加を抑えるもの |
複数の辞典が挙げているのは、江戸の人別改め(住民の把握)を強めたことと、農村から江戸への新たな移住を禁じたことです。旧里帰農令が「帰る人を援助する」政策だったのに対し、人返し令は江戸への入口を狭める政策でした。
背景——天保の飢饉と大塩平八郎の乱
天保年間には、1833年(天保4年)から全国的な大飢饉が続きました。米価が高騰して餓死者が相次ぎ、各地で一揆や打ちこわしが起こります。1837年(天保8年)には、大坂でもと町奉行所の与力だった大塩平八郎が、困窮する人々を救おうとして兵を挙げました。→ 天保の飢饉 / 大塩平八郎の乱
天保の改革は、こうした危機感の高まりのなかで始まります。日本大百科全書は、改革の主な内容として、風俗の取り締まりと倹約令、物価の引き下げ(1841年12月の株仲間解散令など)、江戸における人返し令、対外政策、上知令を挙げています。人返し令は、その柱の一つでした。→ 株仲間
ねらいについて、旺文社日本史事典は、減った農村の人口を増やし、年貢を増やして封建社会を立て直そうとしたと説明しています。世界大百科事典(旧版)は、農村の働き手を確保すると同時に、江戸市中の貧民が増えるのを防ごうとしたとしています。寛政の旧里帰農令と同じく、都市と農村の両方を見た政策です。
結果——実効は少なかったとされるが、評価には幅がある
人返し令の効果については、否定的な説明が多数です。
- 旺文社日本史事典:実効は少なかった
- ブリタニカ国際大百科事典:寛政・天保の改革の帰農策は、効果がほとんどなかった
- 山川 日本史小辞典:成功を収めるには至らなかった
一方で、改訂新版 世界大百科事典は少し違う見方を示しています。同書は、実施された期間が短かったこともあって、農村の人口を増やすなどの農村の立て直しには効果があったとはいえないとしたうえで、都市の社会不安を取り除き、過剰な人口を減らす面では、一時的とはいえ効果があったとしています。
「人返し令は失敗した」と一言でまとめられることが多いのですが、何を目標と見るかで評価が変わる、という点は知っておいて損はありません。
改革そのものが2年半で終わる
同じ1843年、幕府は江戸・大坂の周辺にある大名や旗本の領地を返上させ、幕府の直轄地にしようとする上知令を出しました。これが強い反対にあって閏9月に撤回され、水野忠邦は同じ月に老中を辞めさせられます(日本大百科全書「水野忠邦」)。人返し令は、改革が終わる半年あまり前に出された政策でした。
年表で見る二つの法令
- 1782〜87天明の飢饉各地で打ちこわしが起こる
- 1787寛政の改革が始まる5月に江戸で打ちこわし。6月に松平定信が老中首座に
- 1790旧里帰農令帰農を願い出た者に旅費・農具代などを与えて帰村を勧める。同じ年に人足寄場も設置
- 1793松平定信が老中を辞める寛政の改革が終わる
- 1833〜天保の飢饉1836年に大凶作となり、米価が高騰
- 1837大塩平八郎の乱大坂で起こる
- 1841天保の改革が始まる大御所家斉の死後、水野忠邦が主導。12月に株仲間解散令
- 1843人返し令3月。江戸の人別改めを強め、新たな移住を禁じる
- 1843上知令の撤回と水野忠邦の失脚閏9月。改革は約2年半で終わる
「人返し」「帰農令」という呼び方の揺れ
検索すると「人返しの法」「人返し令」「旧里帰農奨励令」「帰農令」など、よく似た名前がいくつも出てきます。コトバンクに収録された辞典の見出しや説明を並べると、次のようになります。
| 呼び方 | 主に指すもの | 辞典での扱いの例 |
|---|---|---|
| 旧里帰農令 | 寛政の改革の帰農奨励(1790年〜) | 百科事典マイペディア、旺文社日本史事典が立項。山川 日本史小辞典は「人返の法」の項で説明 |
| 旧里帰農奨励令 | 同上 | 日本大百科全書の「寛政の改革」「松平定信」、世界大百科事典(旧版)での呼び方 |
| 人返しの法(人返の法)・人返し令 | 天保の改革の人口対策(1843年) | 旺文社日本史事典は「帰農令」と説明し、「人返し令ともいう」とする |
| 人返し | 広い意味では、移り住んだ人を元の土地へ戻すこと全般 | デジタル大辞泉は、領主どうしの交渉で領民を呼び戻すことと、寛政・天保の改革で行われた帰郷政策の両方を挙げる |
「人返し」という言葉は、もともと江戸時代より前から使われていました。改訂新版 世界大百科事典は、中世後期に領主や戦国大名が、逃げた百姓や奉公人を連れ戻した政策も「人返し」として説明しています。デジタル大辞泉が寛政の改革の政策の一つに「人返し」を挙げているように、広い意味では寛政の帰農政策まで含みます。
それでも、辞典で「人返しの法(人返の法)」「人返し令」という名で説明されているのは、天保の改革のものです。答案では、法令名と改革名をセットで書くのが安全です。
混同しやすい点
- 旧里帰農令=天保の改革、は誤り:旧里帰農令は寛政の改革(松平定信)、人返し令は天保の改革(水野忠邦)です。
- 直前の飢饉を入れ替えない:寛政の改革の前は天明の飢饉、天保の改革の前は天保の飢饉です。大塩平八郎の乱(1837年)は天保の側に入ります。
- 人足寄場は寛政:人足寄場ができたのは旧里帰農令と同じ1790年で、天保の改革の政策ではありません。
- 株仲間の解散と上知令は天保:人返し令とセットで出てくるのは、株仲間解散令(1841年)と上知令(1843年)です。
- 「どちらも効果は十分でなかった」は共通:違いを問う問題では、結果ではなく、改革名・人物・やり方で見分けます。
人物から逆算するのも確実です。松平定信なら旧里帰農令、水野忠邦なら人返し令と、人物名を起点に確かめてください。
前後の因果——なぜ幕府は農民を村へ戻したがったのか
二つの法令は、次の流れの中に置くとつながります。
- 飢饉などをきっかけに村を離れる百姓が増え、江戸に貧しい人々が集まる
- 打ちこわしなど、都市の治安への不安が高まる
- 村では働き手が減って荒れ地が増え、年貢の確保が難しくなる
- 寛政の改革:旧里帰農令で帰村を勧める(奨励)→ 願い出る者は少ない
- 天保の飢饉・大塩平八郎の乱で危機が再び深まる
- 天保の改革:人返し令で人別改めを強め、新たな移住を禁じる(規制)→ 実効は少なかったとされる
- 上知令の撤回を機に水野忠邦が失脚し、改革は終わる
山川 日本史小辞典は、農民の都市への集中は享保期の前後から進んでおり、農村の荒廃、都市の治安の悪化、飢饉のときの貧民の救済といった深刻な問題を生んだと説明しています。二つの法令は、この長く続いた問題に対する、約50年をへだてた二度の対応でした。
奨励策の旧里帰農令で願い出る者が少なく、約半世紀後に規制を強めた人返し令が出ても十分な成果が上がらなかったという順番からは、法令だけで人の流れを押し戻すことの難しさが読み取れます。これは辞典の記述をもとにした当サイトの整理です。
確認問題
問1 1790年、老中松平定信のもとで、江戸に出てきた人のうち帰農を願い出た者に旅費や農具代などを与えた法令は何でしょう。
答え:旧里帰農令(寛政の改革)です。資金を用意して帰村を勧める奨励策でした。
問2 1843年に人返し令を出した老中は誰で、何という改革の政策でしょう。
答え:水野忠邦、天保の改革です。人返しの法とも呼ばれます。
問3 次の文のうち、誤っているものはどれでしょう。
- ア:旧里帰農令は、帰農を願い出た者に資金を与えて帰村を勧めた。
- イ:人返し令は、農村から江戸への新たな移住を禁じた。
- ウ:旧里帰農令は、天保の飢饉を受けて水野忠邦が出した。
- エ:人足寄場は、旧里帰農令と同じ1790年に設けられた。
答え:ウです。旧里帰農令は天明の飢饉のあと、寛政の改革で松平定信のもとで出された法令です。天保の飢饉のあとに水野忠邦が出したのは人返し令です。
問4 人返し令と同じ天保の改革の政策を、次から二つ選びましょう。
- ア:株仲間解散令
- イ:人足寄場の設置
- ウ:上知令
- エ:七分積金
答え:アとウです。イとエは寛政の改革の政策です。
場面つきの選択式で確かめたい場合は、因果クイズの「人返し令」と「旧里帰農令」も使えます。時代全体の演習は江戸時代の一問一答と江戸時代の因果クイズにまとめてあります。
まとめ
- 旧里帰農令:1790年(寛政2年)、寛政の改革で松平定信のもとで出された。帰農を願い出た者に旅費・農具代などを与えて帰村を勧める奨励策。願い出る者は少なく、十分な成果は上がらなかった。
- 人返し令(人返しの法):1843年(天保14年)、天保の改革で水野忠邦のもとで出された。江戸の人別改めを強め、新たな移住を禁じた。実効は少なかったとされるが、都市人口の面で一時的な効果を認める説明もある。
- 強制だったか:すでに江戸にいる人をどこまで帰らせたかは、辞典で説明が分かれる。
- 呼び方の揺れ:「人返し」は広い意味では寛政の政策も含む。答案では法令名と改革名をセットで書く。
「寛政は勧める、天保は禁じる」。この一行を入れておけば、二つの法令は混ざりにくくなります。
参考資料
- コトバンク「人返し」(デジタル大辞泉、精選版 日本国語大辞典、改訂新版 世界大百科事典、百科事典マイペディア、ブリタニカ国際大百科事典)
- コトバンク「人返しの法」(旺文社日本史事典)
- コトバンク「人返の法」(山川 日本史小辞典)
- コトバンク「人返し令」(世界大百科事典(旧版)「天保改革」の項の言及)
- コトバンク「旧里帰農令」(百科事典マイペディア、旺文社日本史事典、山川 日本史小辞典)
- コトバンク「旧里帰農奨励令」(世界大百科事典(旧版)「寛政改革」「手余地」の項の言及)
- コトバンク「寛政の改革」「松平定信」(日本大百科全書(ニッポニカ)、デジタル大辞泉、山川 日本史小辞典ほか)
- コトバンク「天保の改革」「水野忠邦」(日本大百科全書(ニッポニカ)、精選版 日本国語大辞典、旺文社日本史事典ほか)
- コトバンク「人足寄場」(デジタル大辞泉、精選版 日本国語大辞典、改訂新版 世界大百科事典)
- コトバンク「天明の飢饉」「天保の飢饉」「大塩平八郎の乱」(デジタル大辞泉、精選版 日本国語大辞典、日本大百科全書(ニッポニカ))
- コトバンク「上知令」「株仲間解散令」(デジタル大辞泉、日本大百科全書(ニッポニカ)、山川 日本史小辞典)
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