守護と地頭の違いは「置かれた単位」と「仕事の中身」
守護は国ごとに置かれ、国内の御家人を指揮して軍事・警察を担った役職です。地頭は荘園・公領ごとに置かれ、土地の管理、年貢の徴収、治安の維持を担った役職です。どちらも1185年(文治元年)に源頼朝が朝廷から設置を認められ、鎌倉幕府が御家人の中から任命しました。
この記事では、守護と地頭がそれぞれ何をしたのかを確認したうえで、なぜ1185年に置かれたのか、鎌倉幕府の成立年とどう関係するのか、承久の乱や室町時代に向けてどう変わったのかを順に整理します。→ 守護・地頭(一問一答)
年代と人物
| 人物 | 立場 | 守護・地頭との関わり |
|---|---|---|
| 源頼朝 | 鎌倉殿(のち征夷大将軍) | 朝廷に守護・地頭の設置を認めさせた |
| 後白河法皇 | 朝廷側 | 義経に頼朝追討の宣旨を出したのち、頼朝側の申請を認めた |
| 源義経・源行家 | 頼朝と対立した一族 | 二人の追討が、守護・地頭設置の名目になった |
| 北条時政 | 鎌倉方の御家人 | 上洛し、吉田経房を通じて設置を申請した |
- 1180頼朝の挙兵東国で軍事政権をつくり、守護人の任命も始める
- 1183寿永二年十月宣旨頼朝が東国の支配を朝廷から認められる
- 1185年3月壇ノ浦の戦い平氏が滅びる
- 1185年10月義経に頼朝追討の宣旨義経と頼朝の対立が決定的になる
- 1185年11月文治の勅許守護・地頭の設置が認められる
- 1186国地頭の後退北条時政が地頭職を辞退し、兵粮米の徴収も停止される
- 1192頼朝が征夷大将軍に成立年の説の一つになる
- 1221承久の乱没収地に新補地頭が置かれる
- 1223新補率法新補地頭の取り分を定める
- 1232御成敗式目守護の職務(大犯三カ条)などを定める
背景──なぜ1185年に守護・地頭が置かれたのか
平氏滅亡後の義経との対立
1185年3月、壇ノ浦の戦いで平氏が滅びました。ところがその直後から、頼朝と弟の源義経が対立します。Wikipediaによれば、義経は後白河法皇に頼朝追討の宣旨を求め、10月18日に宣旨が出されました。しかし義経と源行家は、11月3日に都を落ちることになります。
北条時政の上洛と文治の勅許
頼朝はこの機会をとらえました。北条時政が上洛し、吉田経房を通じて後白河法皇に申請した結果、11月28日、義経・行家の追討を名目として、諸国に守護・地頭を置くことが認められました。これを文治の勅許と呼びます。
『吾妻鏡』は、このとき荘園・公領を問わず、田1段あたり5升の兵粮米を課すことも認められたと伝えています。なお同書は、大江広元の献策がきっかけだったと記していますが、Wikipediaによれば、石母田正らはこの献策の話に疑問を示しています。
「国地頭」説──学説が分かれる点
1185年に置かれたものが、教科書にある守護・地頭と同じだったのかは、学説が分かれる点です。
- 国地頭説:一つの説では、このとき置かれたのは、一国単位で兵粮米の徴収や国内の武士の動員など強大な権限をもつ「国地頭」だったとされます。改訂新版世界大百科事典によれば、兵粮米をめぐる混乱から、1186年3月に北条時政が地頭職の辞退を申し出て惣追捕使となり、頼朝も兵粮米の徴収を停止しました。同年6月には西国の地頭の権限が平家没官領・謀反人の所領を除いてとどめられ、国地頭は実際上廃止されたとされます。その後、惣追捕使がやがて守護と呼ばれるようになったとする説があります。
- 慎重な見方:山川日本史小辞典は、国地頭は実態に不明な点が多く、存在そのものを否定する見解もあると紹介しています。
地頭の設置範囲についても、「諸国に置く」という勅許の文言どおりに全国に置かれたわけではありません。山川日本史小辞典は、当初の地頭が任命される範囲は謀反人の旧領に限られたと説明し、ブリタニカ国際大百科事典は、荘園領主の反対によって翌1186年に平家没官領(平氏から没収した所領)と謀反人の所領に限定されたとしています。なお日本大百科全書は、設置範囲を全国とみるか平家没官領に限るとみるかなどについて、諸説が対立していると紹介しています。
守護とは──国ごとに置かれた軍事・警察の責任者
置かれ方
守護は、国ごとに原則として1人置かれ、有力な御家人が任命されました。Wikipediaによれば、鎌倉中期以降は北条氏一門が多くの国の守護職を独占していきます。
大犯三カ条
守護の職務は大犯三カ条と呼ばれます。
| 大犯三カ条 | 内容 | 性格 |
|---|---|---|
| 大番催促 | 国内の御家人を京都大番役につかせるよう催促し、指揮する | 軍事の指揮 |
| 謀反人の検断 | 国家への反逆者を捜して捕らえる | 警察 |
| 殺害人の検断 | 人を殺した者を捜して捕らえる | 警察 |
日本大百科全書は、謀反人・殺害人の追捕が国内の警察権、大番催促が国内の軍事指揮権にあたると説明しています。1232年(貞永元年)の御成敗式目では、第3条で守護の職務が定められ、ここに夜討・強盗・山賊・海賊の取り締まりが加えられました。→ 御成敗式目
大番催促が守護にとってどれほど重要だったかは、御恩と奉公とはの京都大番役の節で詳しく紹介しています。
できなかったこと
鎌倉時代の守護の権限は、軍事と警察に限られていました。山川日本史小辞典は、国衙の行政に関わることや、土地・住民を支配することが禁じられていたと説明しています。一方でブリタニカ国際大百科事典は、大犯三カ条にあたる罪であれば、公家や寺社の荘園の中でも検断できたとしています。
地頭とは──荘園・公領ごとに置かれた現地の管理者
言葉の意味
「地頭」という言葉は、幕府ができる前の平安時代から、「土地のほとり」、つまり「現地」を意味する語として使われていました。
地頭の権限
地頭の権限は、百科事典マイペディアや改訂新版世界大百科事典によれば、次の三つにまとめられます。
- 下地管理権:荘園・公領の土地を管理する
- 徴税権:年貢などを徴収し、荘園領主や国司に納める
- 警察・裁判権:その土地の治安を守る
任命と解任は幕府だけ
地頭について押さえておきたいのは、任命と解任の権限が幕府だけにあったことです。Wikipediaによれば、荘園領主や国司には地頭をやめさせる権限がありませんでした。
荘園領主や国司が任命する荘官・郡司などとは、ここが違います。現地に「領主がやめさせられない管理者」がいることになり、年貢の未納などをめぐって、荘園領主と地頭の争いが増えていきました。御成敗式目も第5条で、地頭が年貢を抑留した場合について定めています。
地頭は、御家人にとって将軍からの御恩そのものでもありました。鎌倉幕府では、新しい所領を与える新恩給与が、御家人を地頭に任じる形で行われたからです。
鎌倉幕府の成立年と守護・地頭
「鎌倉幕府は1192年か、1185年か」という疑問は、守護・地頭と深く関わっています。ブリタニカ国際大百科事典や山川日本史小辞典は、成立の画期として次のような時点を挙げています。
| 年 | 根拠となるできごと |
|---|---|
| 1180年(治承4年) | 東国に軍事政権を樹立する |
| 1183年(寿永2年) | 寿永二年十月宣旨で東国の支配を認められる |
| 1184年(元暦元年) | 公文所・問注所を置く |
| 1185年(文治元年) | 守護・地頭の任命を勅許される |
| 1190年(建久元年) | 右近衛大将に任じられ、日本国総守護・総地頭の地位も認められる |
| 1192年(建久3年) | 征夷大将軍に任じられる |
どの説をとるかは、「幕府とは何か」をどうとらえるかによって変わります。日本大百科全書は、説が分かれるのは幕府の本質のとらえ方の違いによるもので、一つの説だけを正しいと断定することはできないとしています。1185年は守護・地頭の設置、1192年は頼朝の征夷大将軍任官という、それぞれ異なる出来事を指します。年号だけを争うのではなく、何が成立した年かを区別しましょう。
前後の因果──承久の乱後の新補地頭
西国に広がる地頭
1221年の承久の乱で朝廷側が敗れると、幕府は朝廷側の所領3000か所あまりを没収し、そこに御家人を新しい地頭として置きました。承久の乱の前からの地頭を本補地頭、乱の後に置かれた地頭を新補地頭と呼びます。→ 承久の乱
これによって、それまで東国中心だった幕府の力が、西国の荘園にも深く入り込むことになりました。
新補率法
山川日本史小辞典によれば、1223年(貞応2年)、幕府の要請による宣旨で新補率法が定められ、新補地頭の取り分が決められました。
- 田畠の面積の11分の1を、年貢のかからない地頭の給田とする
- 田1段あたり5升の加徴米を地頭の取り分とする
- Wikipediaによれば、山や川・海からの収益は荘園領主側と折半し、地頭が捕らえた犯人の財産の3分の1も地頭に与えられた
西国の荘園に入った地頭と荘園領主との争いは、やがて地頭請や下地中分という解決策につながります。この流れは地頭請と守護請の違いで詳しく整理しています。
室町時代への橋渡し──守護の変化
守護と地頭は、鎌倉時代の終わりから室町時代にかけて、まったく違う道をたどります。
- 守護:室町時代には守護の権限が広がります。山川日本史小辞典によれば、室町幕府は1346年(貞和2年)、他人の田の作物を実力で刈り取る刈田狼藉の取り締まりと、幕府の裁定を使節を送って現地で強制執行する使節遵行を、大犯三カ条に加えて守護の職務としました。1352年には荘園の年貢の半分を取る半済も認められ、守護は国内の荘園に入り込んで、守護大名と呼ばれる存在になっていきます。→ 守護大名
- 地頭:一方で地頭は、ほかの武士と同じく国人へと変わっていき、守護領国制が成熟する室町中期までに、名実ともに消えていきました。
半済の詳しい中身は半済令とはで解説しています。
比較表──守護と地頭
確認クイズ
第1問
鎌倉時代の守護の職務である大犯三カ条の三つをすべて答えてください。
答え:大番催促、謀反人の検断(取り締まり)、殺害人の検断(取り締まり)です。 1232年の御成敗式目で、夜討・強盗・山賊・海賊の取り締まりが加えられました。
第2問
1221年の承久の乱のあと、幕府が没収した朝廷側の所領に新しく置いた地頭を何と呼びますか。また、その取り分を定めた1223年の基準を何と呼びますか。
答え:新補地頭です。取り分の基準は新補率法です。 乱の前からの地頭は本補地頭と呼びます。
第3問
次の文は正しいですか、誤っていますか。 「地頭は国ごとに1人置かれ、国内の御家人を京都大番役に動員した。」
答え:誤りです。 国ごとに置かれ、大番催促で御家人を動員したのは守護です。地頭は荘園・公領ごとに置かれ、土地の管理や年貢の徴収を担いました。
役職の違いは、因果クイズの「守護地頭」でも試せます。鎌倉時代の用語は鎌倉時代の一問一答、流れは鎌倉時代の因果クイズで練習できます。
まとめ
- 守護は国ごとに置かれ、大番催促と謀反人・殺害人の検断という大犯三カ条で、軍事・警察を担いました。
- 地頭は荘園・公領ごとに置かれ、土地の管理、年貢の徴収、治安の維持を担いました。任命・解任の権限は幕府だけにありました。
- 両者は1185年の文治の勅許で設置が認められましたが、このとき置かれたのは「国地頭」だったとする説が有力で、地頭の設置範囲も当初は限られていました。
- 鎌倉幕府の成立年には1180年から1192年まで複数の説があり、守護・地頭を設置した1185年説が有力とされています。
- 承久の乱のあとは新補地頭が西国に広がり、室町時代には守護が守護大名へ成長する一方、地頭は国人に変わって消えていきました。
参考資料
- 守護 - コトバンク(日本大百科全書、改訂新版世界大百科事典、山川日本史小辞典ほか)
- 地頭 - コトバンク
- 大犯三箇条 - コトバンク
- 国地頭 - コトバンク
- 鎌倉幕府 - コトバンク(日本大百科全書、精選版日本国語大辞典ほか)
- 新補率法 - コトバンク
- 刈田狼藉 - コトバンク
- 使節遵行 - コトバンク
- 守護 - Wikipedia
- 地頭 - Wikipedia
- 文治の勅許 - Wikipedia
- 源義経 - Wikipedia
- 源頼朝 - Wikipedia
- 鎌倉幕府 - Wikipedia
- 新補地頭 - Wikipedia
- 御成敗式目 - Wikipedia


